っけばら》いだと見えて、本堂も廊下《ろうか》も明っ放し……で誰《だれ》も居ない。
 座敷《ざしき》のここにこの机が出ていた。
 机の向うに薄くこう婦人《おんな》が一人、」
 お君はさっと蒼くなる。
「一生懸命にお聞きよ。それが、あなたの母様《おっかさん》だったんだから。
 高髷《たかまげ》を俯向《うつむ》けにして、雪のような頸脚《えりあし》が見えた。手をこうやって、何か書ものをしていたろう。紙はあったが、筆は持っていたか、そこまでは気がつかないが、現に、そこに、あなたとちょうど向い合せの処、」
 正面の襖《ふすま》は暗くなった、破れた引手《ひきて》に、襖紙の裂《さ》けたのが、ばさりと動いた。お君は堅《かた》くなって真直に、そなたを見向いて、瞬《またたき》もせぬのである。
「しっかりして、お聞き、恐くはないから、私が居るから、」と謙造は、自分もちょいと本堂の今は煙《けむり》のように見える、白き戸帳《とばり》を見かえりながら、
「私がそれを見て、ああ、肖《に》たようなとぞっとした時、そっと顔を上げて、莞爾《にっこり》したのが、お向うのその※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、322−6]《ねえ》さんだ、百人一首の挿画《さしえ》にそッくり。
 はッと気がつくと、もう影も姿もなかった。
 私は、思わず飛込んで、その襖を開けたよ。
 がらん堂にして仁右衛門も居らず。懐しい人だけれども、そこに、と思うと、私もちと居なすった幻のあとへは、第一なまぐさを食う身体《からだ》だし、もったいなくッて憚《はばか》ったから、今、お君さん、お前が坐っているそこへ坐ってね、机に凭《もた》れて、」
 と云う時、お君はその机にひたと顔をつけて、うつぶしになった。あらぬ俤《おもかげ》とどめずや、机の上は煤《すす》だらけである。
「で、何となく、あの二階と軒《のき》とで、泣きなすった、その時の姿が、今さしむかいに見えるようで、私は自分の母親の事と一所に、しばらく人知れず泣いて、ようよう外へ出て、日を見て目を拭《ふ》いた次第だった。翌晩《あくるばん》、朝顔を踊った、お前さんを見たんだよ。目前《めさき》を去らない娘《むすめ》さんにそっくりじゃないか。そんな話だから、酒の席では言わなかったが、私はね、さっきお前さんがお出《い》での時、女中が取次いで、女の方だと云った、それにさえ、ぞっとしたくらい、まざまざとここで見たんだよ。
 しかしその机は、昔からここにある見覚えのある、庚申堂はじまりからの附道具《つきどうぐ》で、何もあなたの母様《おっかさん》の使っておいでなすったのを、堂へ納めたというんじゃない。
 それがまたどうして、ここで幻を見たろうと思うと……こうなんだ。
 私の母親の亡くなったのは、あなたの母親《おっかさん》より、二年ばかり前だったろう。
 新盆《にいぼん》に、切籠《きりこ》を提《さ》げて、父親《おやじ》と連立って墓参《はかまいり》に来たが、その白張《しらはり》の切籠は、ここへ来て、仁右衛門|爺様《じいさま》に、アノ威張《いば》った髯題目《ひげだいもく》、それから、志す仏の戒名《かいみょう》、進上《しんじょう》から、供養の主《ぬし》、先祖代々の精霊《しょうりょう》と、一個一個《ひとつひとつ》に書いて貰《もら》うのが例でね。
 内《うち》ばかりじゃない、今でも盆にはそうだろうが、よその爺様《じいさま》婆様《ばあさま》、切籠持参は皆そうするんだっけ。
 その年はついにない、どうしたのか急病で、仁右衛門が呻《うめ》いていました。
 さあ、切籠が迷った、白張でうろうろする。
 ト同じ燈籠《とうろう》を手に提《さ》げて、とき色の長襦袢《ながじゅばん》の透いて見える、羅《うすもの》の涼《すず》しい形《なり》で、母娘連《おやこづれ》、あなたの祖母《おばあさん》と二人連で、ここへ来なすったのが、※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、324−7]《ねえ》さんだ。
 やあ、占《し》めた、と云うと、父親《おやじ》が遠慮なしに、お絹《きぬ》さん――あなた、母様《おっかさん》の名は知っているかい。」
 突俯《つッぷ》したまま、すねたように頭《かぶり》を振った。
「お願《ねがい》だ、お願だ。精霊大まごつきのところ、お馴染の私《わし》が媽々《かかあ》の門札《かどふだ》を願います、と燈籠を振廻《ふりま》わしたもんです。
 母様《おっかさん》は、町内評判の手かきだったからね、それに大勢居る処だし、祖母《おばあ》さんがまた、ちっと見せたい気もあったかして、書いてお上げなさいよ、と云ってくれたもんだから、扇《おうぎ》を畳《たた》んで、お坐んなすったのが――その机です。
 これは、祖父《じい》の何々院《なになにいん》、これは婆さまの何々信女《なになにしんにょ》、そこで、これへ、媽々《かかあ》の戒名を、と父親《おやじ》が燈籠を出した時。
(母様《おっかさん》のは、)と傍《そば》に畏《かしこま》った私を見て、
(謙ちゃんが書くんですよ、)
 とそう云っておくんなすってね、その机の前へ坐らせて、」
 と云う時、謙造は声が曇った。
「すらりと立って、背後《うしろ》から私の手を柔《やわら》かく筆を持添えて……
 おっかさん、と仮名《かな》で書かして下さる時、この襟《えり》へ、」
 と、しっかりと腕を組んで、
「はらはらと涙《なみだ》を落しておくんなすった。
 父親《おやじ》は墨《すみ》をすりながら、伸上《のびあが》って、とその仮名を読んで……
 おっかさん、」
 いいかけて謙造は、ハッと位牌堂の方を振向いてぞっとした。自分の胸か、君子の声か、幽《かすか》に、おっかさんと響いた。
 ヒイと、堪《こら》えかねてか、泣く声して、薄暗がりを一つあおって、白い手が膝の上へばたりと来た。
 突俯《つッぷ》したお君が、胸の苦しさに悶《もだ》えたのである。
 その手を取って、
「それだもの、忘《わ》、忘《わす》れるもんか。その時の、幻が、ここに残って、私の目に見えたんだ。
 ね、だからそれが記念《かたみ》なんだ。お君さん、母様《おっかさん》の顔が見えたでしょう、見えたでしょう。一心におなんなさい、私がきっと請合《うけあ》う、きっと見える。可哀相《かわいそう》に、名、名も知らんのか。」
 と云って、ぶるぶると震《ふる》える手を、しっかと取った。が、冷いので、あなやと驚《おどろ》き、膝を突《つッ》かけ、背《せな》を抱《いだ》くと、答えがないので、慌《あわ》てて、引起して、横抱きに膝へ抱《いだ》いた。
 慌《あわただ》しい声に力を籠《こ》めつつ、
「しっかりおし、しっかりおし、」
 と涙ながら、そのまま、じっと抱《だき》しめて、
「母様《おっかさん》の顔は、※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、326−15]《ねえ》さんの姿は、私の、謙造の胸にある!」
 とじっと見詰《みつ》めると、恍惚《うっとり》した雪のようなお君の顔の、美しく優しい眉《まゆ》のあたりを、ちらちらと蝶《ちょう》のように、紫の影が行交《ゆきか》うと思うと、菫《すみれ》の薫《かおり》がはっとして、やがて縋《すが》った手に力が入った。
 お君の寂しく莞爾《にっこり》した時、寂寞《じゃくまく》とした位牌堂の中で、カタリと音。
 目を上げて見ると、見渡す限り、山はその戸帳《とばり》のような色になった。が、やや艶《つや》やかに見えたのは雨が晴れた薄月の影である。
 遠くで梟が啼《な》いた。
 謙造は、その声に、額堂の絵を思出した、けれども、自分で頭《かぶり》をふって、斉《ひと》しく莞爾《にっこり》した。
 その時何となく机の向が、かわった。
 襖がすらりとあいたようだから、振返えると、あらず、仁右衛門の居室《いま》は閉《しま》ったままで、ただほのかに見える散《こぼ》れ松葉のその模様が、懐《なつか》しい百人一首の表紙に見えた。
[#地から1字上げ](明治四十年一月)



底本:「ちくま日本文学全集 泉鏡花」筑摩書房
   1991(平成3年)10月20日初版発行
   1995(平成7年)8月15日第2刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十一卷」岩波書店
入力:牡蠣右衛門
校正:門田 裕志
2001年10月19日公開
2005年11月25日修正
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