女《なになにしんにょ》、そこで、これへ、媽々《かかあ》の戒名を、と父親《おやじ》が燈籠を出した時。
(母様《おっかさん》のは、)と傍《そば》に畏《かしこま》った私を見て、
(謙ちゃんが書くんですよ、)
 とそう云っておくんなすってね、その机の前へ坐らせて、」
 と云う時、謙造は声が曇った。
「すらりと立って、背後《うしろ》から私の手を柔《やわら》かく筆を持添えて……
 おっかさん、と仮名《かな》で書かして下さる時、この襟《えり》へ、」
 と、しっかりと腕を組んで、
「はらはらと涙《なみだ》を落しておくんなすった。
 父親《おやじ》は墨《すみ》をすりながら、伸上《のびあが》って、とその仮名を読んで……
 おっかさん、」
 いいかけて謙造は、ハッと位牌堂の方を振向いてぞっとした。自分の胸か、君子の声か、幽《かすか》に、おっかさんと響いた。
 ヒイと、堪《こら》えかねてか、泣く声して、薄暗がりを一つあおって、白い手が膝の上へばたりと来た。
 突俯《つッぷ》したお君が、胸の苦しさに悶《もだ》えたのである。
 その手を取って、
「それだもの、忘《わ》、忘《わす》れるもんか。その時の、幻が、ここに
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