−5]《ねえ》さんは誰? と云って聞くのがお極《きま》りのようだったがね。また尋《たず》ねようと思って、阿母《おふくろ》は、と見ると、秋の暮方《くれがた》の事だっけ。ずっと病気で寝ていたのが、ちと心持がよかったか、床《とこ》を出て、二階の臂《ひじ》かけ窓《まど》に袖《そで》をかけて、じっと戸外《そと》を見てうっとり見惚《みと》れたような様子だから、遠慮《えんりょ》をして、黙って見ていると、どうしたか、ぐッと肩を落して、はらはらと涙《なみだ》を落した。
 どうしたの? と飛ついて、鬢《びん》の毛のほつれた処へ、私の頬《ほお》がくっついた時、と見ると向うの軒下《のきした》に、薄く青い袖をかさねて、しょんぼりと立って、暗くなった山の方を見ていたのがその人で、」
 と謙造は面《おもて》を背《そむ》けて、硝子窓《がらすまど》。そのおなじ山が透《す》かして見える。日は傾《かたむ》いたのである。

     六

「その時は、艶々《つやつや》した丸髷《まげ》に、浅葱絞《あさぎしぼ》りの手柄《てがら》をかけていなすった。ト私が覗《のぞ》いた時、くるりと向うむきになって、格子戸へ顔をつけて、両袖でその白い顔を包んで、消えそうな後姿で、ふるえながら泣《な》きなすったっけ。
 桑の実の小母《おば》さん許《とこ》へ、※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、302−8]《ねえ》さんを連れて行ってお上げ、坊《ぼう》やは知ってるね、と云って、阿母《おふくろ》は横抱に、しっかり私を胸へ抱いて、
 こんな、お腹をして、可哀相《かわいそう》に……と云うと、熱い珠《たま》が、はらはらと私の頸《くび》へ落ちた。」
 と見ると手巾《ハンケチ》の尖《さき》を引啣《ひきくわ》えて、お君《きみ》の肩はぶるぶると動いた。白歯《しらは》の色も涙の露《つゆ》、音するばかり戦《おのの》いて。
 言《ことば》を折られて、謙造は溜息《ためいき》した。
「あなた、もし、」
 と涙声で、つと、腰《こし》を浮《う》かして寄って、火鉢にかけた指の尖が、真白に震《ふる》えながら、
「その百人一首も焼けてなくなったんでございますか。私《わ》、私《わたし》は、お墓もどこだか存じません。」
 と引出して目に当てた襦袢《じゅばん》の袖の燃ゆる色も、紅《くれない》寒き血に見える。
 謙造は太息《といき》ついて、
「ああ、そうですか、じゃあ里に遣《や》られなすったお娘《こ》なんですね。音信不通《いんしんふつう》という風説だったが、そうですか。――いや、」
 と言《ことば》を改めて、
「二十年前の事が、今目の前に見えるようだ。お察し申します。
 私も、その頃|阿母《おふくろ》に別れました。今じゃ父親《おやじ》も居《お》らんのですが、しかしまあ、墓所《はかしょ》を知っているだけでも、あなたより増《まし》かも知れん。
 そうですか。」
 また歎息して、
「お墓所もご存じない。」
「はい、何にも知りません。あなたは、よく私の両親の事をご存じでいらっしゃいます、せめて、その、その百人一首でも見とうござんすのにね。……」
 と言《ことば》も乱れて、
「墓《おはか》の所をご存じではござんすまいか。」
「……困ったねえ。門徒宗《もんとしゅう》でおあんなすったっけが、トばかりじゃ……」
 と云い淀《よど》むと、堪《たま》りかねたか、蒲団《ふとん》の上へ、はっと突俯《つッぷ》して泣くのであった。
 謙造は目を瞑《ねむ》って腕組したが、おお、と小さく膝《ひざ》を叩《たた》いて、
「余りの事のお気の毒さ。肝心《かんじん》の事を忘れました。あなた、あなた、」
 と二声《ふたこえ》に、引起された涙の顔。
「こっちへ来てご覧なさい。」
 謙造は座を譲って、
「こっちへ来て、ここへ、」
 と指さされた窓の許《もと》へ、お君は、夢中《むちゅう》のように、つかつか出て、硝子窓の敷居《しきい》に縋《すが》る。
 謙造はひしと背後《うしろ》に附添《つきそ》い、
「松葉越《まつばごし》に見えましょう。あの山は、それ茸狩《たけがり》だ、彼岸《ひがん》だ、二十六|夜待《やまち》だ、月見だ、と云って土地の人が遊山《ゆさん》に行く。あなたも朝夕見ていましょう。あすこにね、私の親たちの墓があるんだが、その居《い》まわりの回向堂《えこうどう》に、あなたの阿母《おっか》さんの記念《かたみ》がある。」
「ええ。」
「確《たしか》にあります、一昨日《おととい》も私が行って見て来たんだ。そこへこれからお伴《とも》をしよう、連れて行って上げましょう、すぐに、」
 と云って勇《いさ》んだ声で、
「お身体《からだ》の都合《つごう》は、」
 その花やかな、寂《さみ》しい姿をふと見つけた。
「しかし、それはどうとも都合《つごう》が出来よう。」
「まあ
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