や、その時は賑《にぎや》かだッけ。」
 と陽気な声。

     五

「土蔵がずッしりとあるだけに、いつも火の気のないような、しんとした、大きな音じゃ釜《かま》も洗わないといった家が、夜になると、何となく灯《あかり》がさして、三味線《しゃみせん》太鼓《たいこ》の音がする。時々どっと山颪《やまおろし》に誘われて、物凄《ものすご》いような多人数《たにんず》の笑声《わらいごえ》がするね。
 何ッて、母親《おふくろ》の懐《ふところ》で寝ながら聞くと、これは笑っているばかり。父親《おやじ》が店から声をかけて、魔物が騒ぐんだ、恐《こわ》いぞ、と云うから、乳へ顔を押着《おッつ》けて息を殺して寝たっけが。
 三晩《みばん》ばかり続いたよ。田地田畠《でんじでんばた》持込《もちこみ》で養子が来たんです。
 その養子というのは、日にやけた色の赤黒い、巌乗《がんじょう》づくりの小造《こづくり》な男だっけ。何だか目の光る、ちときょときょとする、性急《せっかち》な人さ。
 性急《せっかち》なことをよく覚えている訳は、桃《もも》を上げるから一所においで。※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、299−2]《ねえ》さんが、そう云った、坊《ぼう》を連れて行けというからと、私を誘ってくれたんだ。
 例の巾着をつけて、いそいそ手を曳《ひ》かれて連れられたんだが、髪を綺麗《きれい》に分けて、帽子《ぼうし》を冠《かぶ》らないで、確かその頃|流行《はや》ったらしい。手甲《てっこう》見たような、腕へだけ嵌《は》まる毛糸で編んだ、萌黄《もえぎ》の手袋を嵌めて、赤い襯衣《しゃつ》を着て、例の目を光らしていたのさ。私はその娘さんが、あとから来るのだろう、来るのだろうと、見返り見返りしながら手を曳かれて行ったが、なかなか路《みち》は遠かった。
 途中で負《おぶ》ってくれたりなんぞして、何でも町尽《まちはずれ》へ出て、寂《さびし》い処を通って、しばらくすると、大きな榎《えのき》の下に、清水《しみず》が湧《わ》いていて、そこで冷い水を飲んだ気がする。清水には柵《さく》が結《ゆ》ってあってね、昼間だったから、点《つ》けちゃなかったが、床几《しょうぎ》の上に、何とか書いた行燈《あんどん》の出ていたのを覚えている。
 そこでひとしきり、人通りがあって、もうちと行くと、またひっそりして、やがて大きな桑畠《くわばたけ》へ入って、あの熟《じゅく》した桑の実を取って食べながら通ると、ニ三人葉を摘《つ》んでいた、田舎《いなか》の婦人があって、養子を見ると、慌《あわ》てて襷《たすき》をはずして、お辞儀《じぎ》をしたがね、そこが養子の実家だった。
 地続きの桃畠《ももばたけ》へ入ると、さあ、たくさん取れ、今じゃ、※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、300−2]《ねえ》さんのものになったんだから、いつでも来るがいい。まだ、瓜《うり》もある、西瓜《すいか》も出来る、と嬉しがらせて、どうだ。坊は家の児《こ》にならんか、※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、300−4]《ねえ》さんがいい児にするぜ。
 厭《いや》か、爺婆《じじばば》が居《い》るから。……そうだろう。あんな奴は、今におれがたたき殺してやろう、と恐ろしく意気込んで、飛上って、高い枝《えだ》の桃の実を引《ひん》もぎって一個《ひとつ》くれたんだ。
 帰途《かえり》は、その清水の処あたりで、もう日が暮《く》れた。婆《ばばあ》がやかましいから急ごう、と云うと、髪をばらりと振《ふ》って、私の手をむずと取って駆出《かけだ》したんだが、引立《ひった》てた腕《うで》が※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]《も》げるように痛む、足も宙《ちゅう》で息が詰《つま》った。養子は、と見ると、目が血走っていようじゃないか。
 泣出したもんだから、横抱《よこだき》にして飛んで帰ったがね。私は何だか顔はあかし、天狗《てんぐ》にさらわれて行ったような気がした。袂に入れた桃の実は途中で振落《ふりおと》して一つもない。
 そりゃいいが、半年|経《た》たない内にその男は離縁《りえん》になった。
 だんだん気が荒《あら》くなって、※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、301−1]《ねえ》さんのたぶさを掴《つか》んで打った、とかで、田地《でんじ》は取上げ、という評判《ひょうばん》でね、風の便りに聞くと、その養子は気が違ってしまったそうだよ。
 その後《のち》、晩方《ばんがた》の事だった。私はまた例の百人一首を持出して、おなじ処を開けて腹這《はらば》いで見ていた。その絵を見る時は、きっと、この※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、301
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