縁結び
泉鏡花
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)襖《ふすま》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)八|畳《じょう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、286−4]
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一
襖《ふすま》を開けて、旅館の女中が、
「旦那《だんな》、」
と上調子《うわっちょうし》の尻上《しりあが》りに云《い》って、坐《すわ》りもやらず莞爾《にっこり》と笑いかける。
「用かい。」
とこの八|畳《じょう》で応じたのは三十ばかりの品のいい男で、紺《こん》の勝った糸織《いとおり》の大名縞《だいみょうじま》の袷《あわせ》に、浴衣《ゆかた》を襲《かさ》ねたは、今しがた湯から上ったので、それなりではちと薄《うす》ら寒し、着換《きか》えるも面倒《めんどう》なりで、乱箱《みだればこ》に畳《たた》んであった着物を無造作に引摺出《ひきずりだ》して、上着だけ引剥《ひっぱ》いで着込《きこ》んだ証拠《しょうこ》に、襦袢《じゅばん》も羽織も床《とこ》の間《ま》を辷《すべ》って、坐蒲団《すわりぶとん》の傍《わき》まで散々《ちりぢり》のしだらなさ。帯もぐるぐる巻き、胡坐《あぐら》で火鉢《ひばち》に頬杖《ほおづえ》して、当日の東雲御覧《しののめごらん》という、ちょっと変った題の、土地の新聞を読んでいた。
その二の面の二段目から三段へかけて出ている、清川謙造氏《きよかわけんぞうし》講演、とあるのがこの人物である。
たとい地方でも何でも、新聞は早朝に出る。その東雲御覧を、今やこれ午後二時。さるにても朝寝《あさね》のほど、昨日《きのう》のその講演会の帰途《かえり》のほども量《はか》られる。
「お客様でございますよう。」
と女中は思入《おもいいれ》たっぷりの取次を、ちっとも先方気が着かずで、つい通りの返事をされたもどかしさに、声で威《おど》して甲走《かんばし》る。
吃驚《びっくり》して、ひょいと顔を上げると、横合から硝子窓《がらすまど》へ照々《てらてら》と当る日が、片頬《かたほお》へかっと射したので、ぱちぱちと瞬《またた》いた。
「そんなに吃驚なさいませんでもようございます。」
となおさら可笑《おかし》がる。
謙造は一向|真面目《まじめ》で、
「何という人だ。名札はあるかい。」
「いいえ、名札なんか用《い》りません。誰《だれ》も知らないもののない方でございます。ほほほ、」
「そりゃ知らないもののない人かも知れんがね、よそから来た私にゃ、名を聞かなくっちゃ分らんじゃないか、どなただよ。」
と眉《まゆ》を顰《ひそ》める。
「そんな顔をなすったってようございます。ちっとも恐《こわ》くはありませんわ。今にすぐにニヤニヤとお笑いなさろうと思って。昨夜《ゆうべ》あんなに晩《おそ》うくお帰りなさいました癖《くせ》に、」
「いや、」
と謙造は片頬《かたほ》を撫《な》でて、
「まあ、いいから。誰だというに、取次がお前、そんなに待たしておいちゃ失礼だろう。」
ちと躾《たしな》めるように言うと、一層|頬辺《ほっぺた》の色を濃《こ》くして、ますます気勢込《きおいこ》んで、
「何、あなた、ちっと待たして置きます方がかえっていいんでございますよ。昼間ッからあなた、何ですわ。」
と厭《いや》な目つきでまたニヤリで、
「ほんとは夜来る方がいいんだのに。フン、フン、フン、」
突然《いきなり》川柳《せんりゅう》で折紙《おりがみ》つきの、(あり)という鼻をひこつかせて、
「旦那、まあ、あら、まあ、あら良《い》い香《にお》い、何て香水《こうすい》を召《め》したんでございます。フン、」
といい方が仰山《ぎょうさん》なのに、こっちもつい釣込《つりこ》まれて、
「どこにも香水なんぞありはしないよ。」
「じゃ、あの床の間の花かしら、」
と一際《ひときわ》首を突込《つッこ》みながら、
「花といえば、あなたおあい遊ばすのでございましょうね、お通し申しましてもいいんですね。」
「串戯《じょうだん》じゃない。何という人だというに、」
「あれ、名なんぞどうでもよろしいじゃありませんか。お逢《あ》いなされば分るんですもの。」
「どんな人だよ、じれったい。」
「先方《さき》もじれったがっておりましょうよ。」
「婦人《おんな》か。」
と唐突《だしぬけ》に尋《たず》ねた。
「ほら、ほら、」
と袂《たもと》をその、ほらほらと煽《あお》ってかかって、
「ご存じの癖に、」
「どんな婦人だ。」
と尋ねた時、謙造の顔がさっと暗くなった。新聞を窓《まど》へ翳《かざ》したのである。
「お気の毒様。」
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