二

「何だ、もう帰ったのか。」
「ええ、」
「だってお気の毒様だと云《い》うじゃないか。」
「ほんとに性急《せっかち》でいらっしゃるよ。誰も帰ったとも何とも申上げはしませんのに。いいえ、そうじゃないんですよ。お気の毒様だと申しましたのは、あなたはきっと美しい※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、286−4]《ねえ》さんだと思っておいでなさいましょう。でしょう、でしょう。
 ところが、どうして、跛《びっこ》で、めっかちで、出尻《でっちり》で、おまけに、」
 といいかけて、またフンと嗅《か》いで、
「ほんとにどうしたら、こんな良《い》い匂《におい》が、」
 とひょいと横を向いて顔を廊下《ろうか》へ出したと思うと、ぎょッとしたように戸口を開いて、斜《はす》ッかけに、
「あら、まあ!」
「お伺《うかが》い下すって?」
 と内端《うちわ》ながら判然《はっきり》とした清《すずし》い声が、壁《かべ》に附《つ》いて廊下で聞える。
 女中はぼッとした顔色《かおつき》で、
「まあ!」
「お帳場にお待ち申しておりましたんですけれども、おかみさんが二階へ行っていいから、とそうおっしゃって下さいましたもんですから……」
 と優容《しとやか》な物腰《ものごし》。大概《たいがい》、莟《つぼみ》から咲《さ》きかかったまで、花の香《か》を伝えたから、跛も、めっかちも聞いたであろうに、仂《はした》なく笑いもせなんだ、つつましやかな人柄《ひとがら》である。
「お目にかかられますでしょうか。」
「ご勝手になさいまし。」
 くるりと入口へ仕切られた背中になると、襖の桟《さん》が外《はず》れたように、その縦縞《たてじま》が消えるが疾《はや》いか、廊下を、ばた、ばた、ばた、どたんなり。
「お入ンなさい、」
「は、」
 と幽《かす》かに聞いて、火鉢に手をかけ、入口をぐっと仰《あお》いで、優《やさし》い顔で、
「ご遠慮《えんりょ》なく……私は清川謙造です。」
 と念のために一ツ名乗る。
「ご免《めん》下さいまし、」
 はらりと沈《しず》んだ衣《きぬ》の音で、早《はや》入口へちゃんと両手を。肩がしなやかに袂の尖《さき》、揺《ゆ》れつつ畳《たたみ》に敷いたのは、藤《ふじ》の房《ふさ》の丈長《たけなが》く末濃《すえご》に靡《なび》いた装《よそおい》である。
 文金《ぶんきん》の高髷《たかまげ》ふっくりした前髪《まえがみ》で、白茶地《しらちゃじ》に秋の野を織出した繻珍《しゅちん》の丸帯、薄手にしめた帯腰|柔《やわらか》に、膝《ひざ》を入口に支《つ》いて会釈《えしゃく》した。背負上《しょいあ》げの緋縮緬《ひぢりめん》こそ脇《わき》あけを漏《も》る雪の膚《はだ》に稲妻《いなづま》のごとく閃《ひらめ》いたれ、愛嬌《あいきょう》の露《つゆ》もしっとりと、ものあわれに俯向《うつむ》いたその姿、片手に文箱《ふばこ》を捧《ささ》げぬばかり、天晴《あっぱれ》、風采《ふうさい》、池田の宿《しゅく》より朝顔《あさがお》が参って候《そうろう》。
 謙造は、一目見て、紛《まご》うべくもあらず、それと知った。
 この芸妓《げいしゃ》は、昨夜《ゆうべ》の宴会《えんかい》の余興《よきょう》にとて、催《もよお》しのあった熊野《ゆや》の踊《おどり》に、朝顔に扮《ふん》した美人である。
 女主人公《じょしゅじんこう》の熊野を勤《つと》めた婦人は、このお腰元に較《くら》べていたく品形《しなかたち》が劣《おと》っていたので、なぜあの瓢箪《ひょうたん》のようなのがシテをする。根占《ねじめ》の花に蹴落《けお》されて色の無さよ、と怪《あやし》んで聞くと、芸も容色《きりょう》も立優《たちまさ》った朝顔だけれど、――名はお君という――その妓《こ》は熊野を踊《おど》ると、後できっと煩《わず》らうとの事。仔細《しさい》を聞くと、させる境遇《きょうぐう》であるために、親の死目に合わなかったからであろう、と云った。
 不幸で沈んだと名乗る淵《ふち》はないけれども、孝心なと聞けば懐《なつか》しい流れの花の、旅の衣《ころも》の俤《おもかげ》に立ったのが、しがらみかかる部屋の入口。
 謙造はいそいそと、
「どうして。さあ、こちらへ。」
 と行儀《ぎょうぎ》わるく、火鉢を斜《なな》めに押出《おしだ》しながら、
「ずっとお入んなさい、構やしません。」
「はい。」
「まあ、どうしてね、お前さん、驚《おどろ》いた。」と思わず云って、心着くと、お君はげっそりとまた姿が痩《や》せて、極《きま》りの悪そうに小さくなって、
「済みませんこと。」
「いやいや、驚いたって、何に、その驚いたんじゃない。はははは、吃驚《びっくり》したんじゃないよ。まあ、よく来たねえ。」

     三

「その事で。ああ、なるほど言いました
前へ 次へ
全12ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング