、上から俯目《ふしめ》に覗込《のぞきこ》むようにして、莞爾《にっこり》していると、小児《こども》は行儀よく机《つくえ》に向って、草紙に手習のところなんだがね。
今でも、その絵が目に着いている。衣服《きもの》の縞柄《しまがら》も真《まこと》にしなやかに、よくその膚合《はだあい》に叶《かな》ったという工合で。小児《こども》の背中に、その膝についた手の仕切がなかったら、膚へさぞ移香《うつりが》もするだろうと思うように、ふっくりとなだらかに褄《つま》を捌《さば》いて、こう引廻《ひきまわ》した裾が、小児《こども》を庇《かば》ったように、しんせつに情《じょう》が籠《こも》っていたんだよ。
大袈裟《おおげさ》に聞えようけれども。
私は、その絵が大好きで、開けちゃ、見い見いしたもんだから、百人一首を持出して、さっと開《あけ》ると、またいつでもそこが出る。
この※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、295−4]《ねえ》さんは誰だい?と聞くと阿母《おふくろ》が、それはお向うの※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、295−4]《ねえ》さんだよ、と言い言いしたんだ。
そのお向うの※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、295−6]《ねえ》さんというのに、……お前さんが肖《に》ているんだがね――まあ、お聞きよ。」
「はあ、」
と※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った目がうつくしく、その俤《おもかげ》が映りそう。
「お向うというのは、前に土蔵《どぞう》が二戸前《ふたとまえ》。格子戸《こうしど》に並《なら》んでいた大家《たいけ》でね。私の家なんぞとは、すっかり暮向きが違《ちが》う上に、金貸だそうだったよ。何となく近所との隔《へだ》てがあったし、余り人づきあいをしないといった風で。出入も余計なし、なおさら奥行が深くって、裏はどこの国まで続いているんだか、小児心《こどもごころ》には知れないほどだったから、ついぞ遊びに行った事もなければ、時々、門口じゃ、その※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、295−14]《ねえ》さんというのの母親に口を利かれる事があっても、こっちは含羞《はにかん》で遁《に》げ出したように覚えている。
だから、そのお嬢《じょう》さんなんざ、年紀《とし》も違うし、一所に遊んだ事はもちろんなし、また内気な人だったとみえて、余り戸外《そと》へなんか出た事のない人でね、堅《かた》く言えば深閨《しんけい》に何とかだ。秘蔵娘《ひぞっこ》さね。
そこで、軽々しく顔が見られないだけに、二度なり、三度なり見た事のあるのが、余計に心に残っているんで。その女用文章の中の挿画《さしえ》が真物《ほんもの》だか、真物が絵なんだか分らないくらいだった。
しかしどっちにしろ、顔容《かおかたち》は判然《はっきり》今も覚えている。一日《あるひ》、その母親の手から、娘《むすめ》が、お前さんに、と云って、縮緬《ちりめん》の寄切《よせぎれ》で拵《こしら》えた、迷子札《まいごふだ》につける腰巾着《こしぎんちゃく》を一個《ひとつ》くれたんです。そのとき格子戸の傍《わき》の、出窓の簾《すだれ》の中に、ほの白いものが見えたよ。紅《べに》の色も。
蝙蝠《こうもり》を引払《ひっぱた》いていた棹《さお》を抛《ほう》り出して、内《うち》へ飛込んだ、その嬉《うれ》しさッたらなかった。夜も抱いて寝て、あけるとその百人一首の絵の机の上へのっけたり、立っている娘の胸の処へ置いたり、胸へのせると裾までかくれたよ。
惜《おし》い事をした。その巾着は、私が東京へ行っていた時分に、故郷《こきょう》の家が近火《きんか》に焼けた時、その百人一首も一所に焼けたよ。」
「まあ……」
とはかなそうに、お君の顔色が寂《さび》しかった。
「迷子札は、金《かね》だから残ったがね、その火事で、向うの家《うち》も焼けたんだ。今度通ってみたが、町はもう昔の俤もない。煉瓦造《れんがづく》りなんぞ建って開けたようだけれど、大きな樹がなくなって、山がすぐ露出《むきだ》しに見えるから、かえって田舎《いなか》になった気がする、富士の裾野《すその》に煙突《えんとつ》があるように。
向うの家も、どこへ行きなすったかね、」
と調子が沈んで、少し、しめやかになって、
「もちろんその娘さんは、私がまだ十《と》ウにならない内に亡《な》くなったんだ。――
産後だと言います……」
「お産をなすって?」
と俯目でいた目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》いたが、それがどうやらうるんでいたので。
謙造はじっと見て、傾《かたむ》きながら、
「一人娘《ひとりむすめ》で養子をしたんだね、い
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