と、――ここは、いまの新石橋が架《かか》らない以前に、対岸から山伝いの近道するのに、樹の根、巌角《いわかど》を絶壁に刻んだ径《こみち》があって、底へ下りると、激流の巌から巌へ、中洲の大巌で一度中絶えがして、板ばかりの橋が飛々《とびとび》に、一煽《ひとあお》り飜って落つる白波のすぐ下流は、たちまち、白昼も暗闇《やみ》を包んだ釜ヶ淵なのである。
そのほとんど狼の食い散《ちら》した白骨のごとき仮橋の上に、陰気な暗い提灯の一つ灯《び》に、ぼやりぼやりと小按摩が蠢《うご》めいた。
思いがけない事ではない。二人が顔を見合せながら、目を放さず、立つうちに、提灯はこちらに動いて、しばらくして一度、ふわりと消えた。それは、巌《いわ》の根にかくれたので、やがて、縁日ものの竜燈のごとく、雑樹《ぞうき》の梢《こずえ》へかかった。それは崖へ上って街道へ出たのであった。
――その時は、お桂の方が、衝《つ》と地蔵の前へ身を躱《かわ》すと、街道を横に、夜泣松の小按摩の寄る処を、
「や、御趣向だなあ。」と欣七郎が、のっけに快活に砕けて出て、
「疑いなしだ、一等賞。」
小按摩は、何も聞かない振《ふり》をして、蛙《かわず》が手を※[#「てへん+爭」、第4水準2−13−24]《もが》くがごとく、指で捜《さぐ》りながら、松の枝に提灯を釣すと、謙斎が饒舌《しゃべ》った約束のごとく、そのまま、しょぼんと、根に踞《かが》んで、つくばい立《だち》の膝の上へ、だらりと両手を下げたのであった。
「おい。一等賞君、おい一杯飲もう。一所に来たまえ。」
その時だ。
「ぴい、ぷう。」
笛を銜《くわ》えて、唇を空ざまに吹上げた。
「分ったよ、一等賞だよ。」
「ぴい、ぷう。」
「さ、祝杯を上げようよ。」
「ぴい、ぷう。」
空嘯《そらうそぶ》いて、笛を鳴す。
夫人が手招きをした。何が故に、そのうしろに竜女の祠《ほこら》がないのであろう、塚の前に面影に立った。
「ちえッ」舌うちとともに欣七郎は、強情、我慢、且つ執拗《しつよう》な小按摩を見棄てて、招かれた手と肩を合せた、そうして低声《こごえ》をかわしかわし、町の祭の灯《ともしび》の中へ、並んでスッと立去った。
「ぴい、ぷう。……」
「小一さん。」
しばらくして、引返して二人来た時は、さきにも言った、欣七郎が地蔵の前に控えて、夫人自ら小按摩に対したのである。
「ぴい、ぷう。」
「小一さん。」
「ぴい、ぷう。」
「大島屋の娘はね、幽霊になってしまったのよ。」
と一歩《ひとあし》ひきさま、暗い方に隠れて待った、あの射的店の幽霊を――片目で覗いていた方のである――竹棹《たけざお》に結《ゆわ》えたなり、ずるりと出すと、ぶらりと下って、青い女が、さばき髪とともに提灯を舐《な》めた。その幽霊の顔とともに、夫人の黒髪、びん掻《かき》に、当代の名匠が本質《きじ》へ、肉筆で葉を黒漆《くろうるし》一面に、緋《ひ》の一輪椿の櫛《くし》をさしたのが、したたるばかり色に立って、かえって打仰いだ按摩の化ものの真向《まっこう》に、一太刀、血を浴びせた趣があった。
「一所に、おいでなさいな、幽霊と。」
水ぶくれの按摩の面《おもて》は、いちじくの実の腐れたように、口をえみわって、ニヤリとして、ひょろりと立った。
お桂さんの考慮《かんがえ》では、そうした……この手段を選んで、小按摩を芸妓屋《げいしゃや》町の演芸館。……仮装会の中心点へ送込もうとしたのである。そうしてしまえば、ねだ下、天井裏のばけものまでもない……雨戸の外の葉裏にいても気味の悪い芋虫を、銀座の真中《まんなか》へ押放《おっぱな》したも同然で、あとは、さばさばと寐覚《ねざめ》が可《い》い。
……思いつきで、幽霊は、射的店で借りた。――欣七郎は紳士だから、さすがにこれは阻《はば》んだので、かけあいはお桂さんが自分でした。毛氈《もうせん》に片膝のせて、「私も仮装をするんですわ。」令夫人といえども、下町娘《したまちッこ》だから、お祭り気は、頸脚《えりあし》に幽《かすか》な、肌襦袢《はだじゅばん》ほどは紅《くれない》に膚《はだ》を覗《のぞ》いた。……
もう容易《たやす》い。……つくりものの幽霊を真中《まんなか》に、小按摩と連立って、お桂さんが白木の両ぐりを町に鳴すと、既に、まばらに、消えたのもあり、消えそうなのもある、軒提灯の蔭を、つかず離れず、欣七郎が護《まも》って行《ゆ》く。
芸妓屋町へ渡る橋手前へ、あたかも巨寺《おおでら》の門前へ、向うから渡る地蔵の釜《かま》。
「ぼうぼう、ぼうぼう。」
「ぐらッぐらッ、ぐらッぐらッ。」
「や、小按摩が来た……出掛けるには及ばぬわ、青牛よ。」
「もう。」
と、吠《ほ》える。
「ぴい、ぷう。」
「ぼうぼう、ぼうぼう。」
「ぐらッぐらッ、ぐらッぐらッ。」
そこ
前へ
次へ
全12ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング