怨霊借用
泉鏡花
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)傍《かたわら》に
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一昨年頃|故人《なきひと》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)孤影|※[#「(火+火)/訊のつくり」、第4水準2−79−80]然《けいぜん》として
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一
婦人は、座の傍《かたわら》に人気のまるでない時、ひとりでは按摩《あんま》を取らないが可《い》いと、昔気質《むかしかたぎ》の誰でもそう云う。上《かみ》はそうまでもない。あの下《しも》の事を言うのである。閨《ねや》では別段に注意を要するだろう。以前は影絵、うつし絵などでは、巫山戯《ふざけ》たその光景を見せたそうで。――御新姐《ごしんぞ》さん、……奥さま。……さ、お横に、とこれから腰を揉《も》むのだが、横にもすれば、俯向《うつむけ》にもする、一つくるりと返して、ふわりと柔くまた横にもしよう。水々しい魚《うお》は、真綿、羽二重の俎《まないた》に寝て、術者はまな箸《ばし》を持たない料理人である。衣《きぬ》を透《とお》して、肉を揉み、筋を萎《なや》すのであるから恍惚《うっとり》と身うちが溶ける。ついたしなみも粗末になって、下じめも解けかかれば、帯も緩くなる。きちんとしていてさえざっとこの趣。……遊山《ゆさん》旅籠《はたご》、温泉宿などで寝衣《ねまき》、浴衣に、扱帯《しごき》、伊達巻《だてまき》一つの時の様子は、ほぼ……お互に、しなくっても可《よ》いが想像が出来る。膚《はだ》を左右に揉む拍子に、いわゆる青練《あおねり》も溢《こぼ》れようし、緋縮緬《ひぢりめん》も友染《ゆうぜん》も敷いて落ちよう。按摩をされる方《かた》は、対手《あいて》を盲《めくら》にしている。そこに姿の油断がある。足くびの時なぞは、一応は職業行儀に心得て、太脛《ふくらはぎ》から曲げて引上げるのに、すんなりと衣服《きもの》の褄《つま》を巻いて包むが、療治をするうちには双方の気のたるみから、踵《かかと》を摺下《ずりさが》って褄が波のようにはらりと落ちると、包ましい膝のあたりから、白い踵が、空にふらふらとなり、しなしなとして、按摩の手の裡《うち》に糸の乱るるがごとく縺《もつ》れて、艶《えん》に媚《なまめ》かしい上掻《うわがい》、下掻《したがい》、ただ卍巴《まんじともえ》に降る雪の中を倒《さかし》に歩行《ある》く風情になる。バッタリ真暗《まっくら》になって、……影絵は消えたものだそうである。
――聞くにつけても、たしなむべきであろうと思う。――
が、これから話す、わが下町娘《したまちっこ》のお桂《けい》ちゃん――いまは嫁して、河崎夫人であるのに、この行為、この状があったと言うのでは決してない。
問題に触れるのは、お桂ちゃんの母親で、もう一昨年頃|故人《なきひと》の数に入ったが、照降町《てりふりちょう》の背負商《しょいあきな》いから、やがて宗右衛門町の角地面に問屋となるまで、その大島屋の身代八分は、その人の働きだったと言う。体量も二十一貫ずッしりとした太腹《ふとっぱら》で、女長兵衛と称《たた》えられた。――末娘《すえっこ》で可愛いお桂ちゃんに、小遣《こづかい》の出振《だしっぷ》りが面白い……小買ものや、芝居へ出かけに、お母さんが店頭《みせさき》に、多人数立働く小僧中僧|若衆《わかしゅ》たちに、気は配っても見ないふりで、くくり頤《あご》の福々しいのに、円々とした両肱《りょうひじ》の頬杖《ほおづえ》で、薄眠りをしている、一段高い帳場の前へ、わざと澄ました顔して、(お母さん、少しばかり。)黙って金箱から、ずらりと掴出《つかみだ》して渡すのが、掌《てのひら》が大きく、慈愛が余るから、……痩《やせ》ぎすで華奢《きゃしゃ》なお桂ちゃんの片手では受切れない、両の掌に積んで、銀貨の小粒なのは指からざらざらと溢《こぼ》れたと言う。……亡きあとでも、その常用だった粗末な手ぶんこの中に、なおざりにちょっと半紙に包んで、(桂坊へ、)といけぞんざいに書いたものを開けると、水晶の浄土|珠数《じゅず》一|聯《れん》、とって十九のまだ嫁入前の娘に、と傍《はた》で思ったのは大違い、粒の揃った百幾顆《ひゃくいくつ》の、皆真珠であった。
姉娘に養子が出来て、養子の魂を見取ってからは、いきぬきに、時々伊豆の湯治に出掛けた。――この温泉旅館の井菊屋と云うのが定宿《じょうやど》[#ルビの「じょうやど」は底本では「じやうやど」]で、十幾年来、馴染《なじみ》も深く、ほとんど親類づき合いになっている。その都度秘蔵娘のお桂さんの結綿《ゆいわた》島田に、緋鹿子《ひがのこ》、匹田《ひった》、絞《しぼり》
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