れから豊前《ぶぜん》へ廻つて、中津《なかつ》の米を江戸へ積んで、江戸から奥州へ渡つて、又青森から津軽藩の米を託《ことづか》つて、一度品川まで戻つた処《ところ》、更《あらた》めて津軽の材木を積むために、奥州へ下《くだ》つたんです――其の内、年号は明和《めいわ》と成る……元年|申《さる》の七月八日、材木を積済《つみす》まして、立火《たつび》の小泊《こどまり》から帆を開《ひら》いて、順風に沖へ走り出した時、一|人《にん》、櫓《やぐら》から倒《さかさま》に落ちて死んだのがあつたんです、此があやかしの憑《つ》いたはじめなのよ。
南部の才浦《さいうら》と云ふ処《ところ》で、七日《なぬか》ばかり風待《かざまち》をして居た内に、長八《ちょうはち》と云ふ若い男が、船宿《ふなやど》小宿《こやど》の娘と馴染《なじ》んで、明日《あす》は出帆《しゅっぱん》、と云ふ前の晩、手に手を取つて、行方も知れず……一寸《ちょいと》……駈落《かけおち》をして了《しま》つたんだわ!」
ふと蓮葉《はすは》に、ものを言つて、夫人はすつと立つて、対丈《ついたけ》に、黒人《くろんぼ》の西瓜《すいか》を避けつゝ、鸚鵡の籠《かご》をコト/\と音信《おとず》れた。
「何《ど》う?多分|其《そ》の我まゝな駈落ものの、……私は子孫だ、と思ふんだがね。……御覧の通りだからね、」
と、霜《しも》の冷《つめた》い色して、
「でも、駈落ちをしたお庇《かげ》で、無事に生命《いのち》を助かつたんです。思つた同士は、道行《みちゆ》きに限るのねえ。」
と力なささうに、疲れたらしく、立姿《たちすがた》のなり、黒棚《くろだな》に、柔かな袖《そで》を掛けたのである。
「あとの大勢つたら、其のあくる日から、火の雨、火の風、火の浪《なみ》に吹放《ふきはな》されて、西へ――西へ――毎日々々、百日と六日の間《あいだ》、鳥の影一つ見えない大灘《おおなだ》を漂うて、お米を二|升《しょう》に水一|斗《と》の薄粥《うすがゆ》で、二十人の一日の生命《いのち》を繋《つな》いだのも、はじめの内。くまびきさへ釣《つ》れないもの、長い間《あいだ》に漁したのは、二尋《ふたひろ》ばかりの鱶《ふか》が一|疋《ぴき》。さ、其を食べた所為《せい》でせう、お腹《なか》の皮が蒼白《あおじろ》く、鱶《ふか》のやうにだぶだぶして、手足は海松《みる》の枝の枯れたやうになつて、漸《や》
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