の方にして……卓子《テエブル》の其の周囲《まわり》は、却《かえ》つて寂然《ひっそり》となりました。
 たゞ、和蘭陀《オランダ》の貴公子の、先刻《さっき》から娘に通はす碧《あい》を湛《たた》へた目の美しさ。
 はじめて鸚鵡に見返して、此の言葉よ、此の言葉よ!日本、と真前《まっさき》に云ひましたとさ。」

        五

「真個《まったく》、其の言《ことば》に違はないもんですから、主人も、客も、座を正して、其のいはれを聞かうと云つたの。
 ――港で待つよ――
 深夜に、可恐《おそろし》い黄金蛇《こがねへび》の、カラ/\と這《は》ふ時は、[#「、」は底本では「、、」]土蛮《どばん》でさへ、誰も皆耳を塞《ふさ》ぐ……其の時には何《ど》うか知らない……そんな果敢《はかな》い、一生|奴隷《どれい》に買はれた身だのに、一度も泣いた事を見ないと云ふ、日本の其の少《わか》い人は、今|其《そ》の鸚鵡の一言《ひとこと》を聞くか聞かないに、槍《やり》をそばめた手も恥かしい、ばつたり床《ゆか》に、俯向《うつむ》けに倒れて潸々《さめざめ》と泣くんです。
 お嬢さんは、伸上《のびあが》るやうに見えたの。
 涙を払つて――唯今の鸚鵡《おうむ》の声は、私《わたくし》が日本の地を吹流《ふきなが》されて、恁《こ》うした身に成ります、其の船出の夜中に、歴然《ありあり》と聞きました……十二一重《じゅうにひとえ》に緋の袴《はかま》を召させられた、百人一首と云ふ歌の本においで遊ばす、貴方方《あなたがた》にはお解りあるまい、尊い姫君の絵姿に、面影《おもかげ》の肖《に》させられた御方《おかた》から、お声がかりがありました、其の言葉に違ひありませぬ。いま赫耀《かくやく》とした鳥の翼を見ますると、射《い》らるゝやうに其の緋の袴が目に見えたのでこさります。――と此から話したの――其の時のは、船の女神《おんながみ》さまのお姿だつたんです。
 若い人は筑前《ちくぜん》の出生《うまれ》、博多の孫一《まごいち》と云ふ水主《かこ》でね、十九の年、……七年前、福岡藩の米を積んだ、千六百|石《こく》の大船《たいせん》に、乗組《のりくみ》の人数《にんず》、船頭とも二十人、宝暦《ほうれき》午《うま》の年《とし》十月六日に、伊勢丸《いせまる》と云ふ其の新造《しんぞう》の乗初《のりぞめ》です。先《ま》づは滞《とどこお》りなく大阪へ――そ
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