立《おりた》つものあり。ばたりと煽《あお》って自《おのず》から上に吹開く、引窓の板を片手に擡《もた》げて、倒《さかさま》に内を覗《のぞ》き、おくの、おくのとて、若き妻の名を呼ぶ。その人、面《おもて》青く、髯《ひげ》赤し。下に寝《い》ねたるその妻、さばかりの吹降りながら折からの蒸暑さに、いぎたなくて、掻巻《かいまき》を乗出でたる白き胸に、暖き息、上よりかかりて、曰く、汝《なんじ》の夫なり。魔道に赴きたれば、今は帰らず。されど、小児等《こどもら》も不便《ふびん》なり、活計《たつき》の術《すべ》を教うるなりとて、すなわち餡の製法を伝えつ。今はこれまでぞと云うままに、頸《くび》を入れてまた差覗くや、たちまち、黒雲を捲《ま》き小さくなりて空高く舞上る。傘《からかさ》の飛ぶがごとし。天赤かりしとや。天狗《てんぐ》相伝の餅というものこれなり。
いつぞやらん、その松任より、源平島、水島、手取川を越えて、山に入《い》る、辰口《たつのくち》という小さな温泉に行《ゆ》きて帰るさ、件《くだん》の茶屋に憩いて、児心《こどもごころ》に、ふと見たる、帳場にはあらず、奥の別なる小さき部屋に、黒髪の乱れたる、若き、色
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