がある、それと並んで二木嶋、片村、曾根と谿谷が續く二谷の間を、古來天狗道と呼んで少からず人の懼るゝ處である。時に絲川老人の宿つた夜は恰も樹木挫折れ、屋根廂の摧飛ばむとする大風雨であつた、宿の主とても老夫婦で、客とゝもに搖れ撓む柱を抱き、僅に板形の殘つた天井下の三疊ばかりに立籠つた、と聞くさへ、……わけて熊野の僻村らしい……其の佗しさが思遣られる。唯、こゝに同郡羽鳥に住む老人の一人の甥、茶の木原に住む、其の從弟を誘ひ、素裸に腹帶を緊めて、途中川二つ渡つて、伯父夫婦を見舞に來た、宿に着いたのは眞夜中二時だ、と聞くさへ、其の膽勇殆ど人間の類でない、が、暴風強雨如法の大闇黒中、かの二谷を呑むだ峯の上を、見るも大なる炬火廿ばかり、烈烈として連り行くを仰いで、おなじ大暴風雨に處する村人の一行と知りながら、かゝればこそ、天狗道の稱が起つたのであると悟つて話したといふ、が、或は云ふ處のネルモの火か。
なほ當の南方氏である、先年西牟婁郡安都ヶ峯下より坂泰の巓を踰え日高丹生川にて時を過ごしすぎられたのを、案じて安堵の山小屋より深切に多人數で搜しに來た、人數の中に提灯唯一つ灯したのが同氏の目には、ふと炬火數十束一度に併せ燃したほどに大きく見えた、と記されて居る。然も嬉しい事には、談話に續けて、續膝栗毛善光寺道中に、落合峠のくらやみに、例の彌次郎兵衞、北八が、つれの獵夫の舌を縮めた天狗の話を、何だ鼻高、さあ出て見ろ、其の鼻を引※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]いで小鳥の餌を磨つてやらう、といふを待たず、獵夫の落した火繩忽ち大木の梢に飛上り、たつた今まで吸殼ほどの火だつたのが、またゝくうちに松明の大さとなつて、枝も木の葉もざわ/\と鳴つて燃上つたので、頭も足も獵師もろとも一縮み、生命ばかりはお助け、と心底から涙……が可笑しい、※[#「木+(がんだれ+萬)」、第4水準2−15−69]面屋と喜多利屋と、這個二人の呑氣ものが、一代のうちに唯一度であらうと思ふ……涙を流しつゝ鼻高樣に恐入つた、といふのが、いまの南方氏の隨筆に引いてある。
夜の燈火は、場所により、時とすると不思議の象を現はす事があるらしい。
幸に運轉手が獵師でなかつた、婦たちが眞先に梟の鳴聲に恐れた殊勝さだつたから、大きな提灯が無事に通つた。
が、例を引き、因を説き蒙を啓く、大人の見識を表はすのには、南方氏の説話を聽聞することが少しばかり後れたのである。
實は、怪を語れば怪至る、風説をすれば影がさす――先哲の識語に鑒みて、温泉宿には薄暗い長廊下が續く處、人の居ない百疊敷などがあるから、逗留中、取り出ては大提灯の怪を繰返して言出さなかつたし、東京に皈ればパツと皆消える……日記を出して話した處で、鉛筆の削屑ほども人が氣に留めさうな事でない、婦たちも、そんな事より釜の底の火移りで翌日のお天氣を占ふ方が忙しいから、たゞ其のまゝになつて過ぎた。
翌年――それは秋の末である。糸七は同じ場所――三寶ヶ辻の夜目に同じ處におなじ提灯の顯はれたのを視た。――
……然うは言つても第一季節は違ふ、蛙の鳴く頃ではなし、それに爾時は女房ばかりが同伴の、それも宿に留守して、夜歩行をしたのは糸七一人だつたのである。
夕餉が少し晩くなつて濟んだ、女房は一風呂入らうと云ふ、糸七は寐る前にと、その間をふらりと宿を出た、奧の院の道へ向つたが、
「まづ、御一名――今晩は。」
と道しるべの石碑に挨拶をする、微醉のいゝ機嫌……機嫌のいゝのは、まだ一つ、上等の卷莨に火を點けた、勿論自費購求の品ではない、大連に居る友達が土産にくれたのが、素敵な薫りで一人其の香を聞くのが惜い、燐寸の燃えさしは路傍の小流に落したが、さら/\と行く水の中へ、ツと音がして消えるのが耳についたほど四邊は靜で。……あの釣橋、その三寶ヶ辻――一昨夜、例の提灯の暗くなつて隱れた山入の村を、とふと※[#「目+句」、第4水準2−81−91]したが、今夜は素より降つては居ない、がさあ、幾日ぐらゐの月だらうか、薄曇りに唯茫として、暗くはないが月は見えない、星一つ影もささなかつた、風も吹かぬ。
煙草の薫が來たあとへも、ほんのりと殘りさうで、袖にも匂ふ……たまさかに吸つてふツと吹くのが、すら/\と向ふへ靡くのに乘つて、畷のほの白いのを蹈むともなしに、うか/\と前途なる其の板橋を渡つた。
こゝで見た景色を忘れない、苅あとの稻田は二三尺、濃い霧に包まれて、見渡すかぎり、一面の朧の中に薄煙を敷いた道が、ゆるく、長く波形になつて遙々と何處までともなく奧の院の雲の果まで、遠く近く、一むらの樹立に絶えては續く。
その路筋を田の畔畷の左右に、一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七つと順々に數へるとふわりと霧に包まれて、ぼうと末消えたのが浮いて出たやうに又一つ二つ三つ
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