四つ五つ、稻塚――其の稻塚が、ひよい/\と、いや、實のあとゝいへば氣は輕いけれども、夜氣に沈んだ薄墨の石燈籠の大きな蓋のやうに何處までも行儀よく並んだのが、中絶えがしつゝ、雲の底に姿の見えない、月にかけた果知れぬ八ツ橋の状に視められた。
四邊は、ものゝ、たゞ霧の朧である。
糸七は、然うした橋を渡つた處に、うつかり恍惚と彳んだが、裙に近く流の音が沈んで聞こえる、その沈んだのが下から足を浮かすやうで、餘り靜かなのが心細くなつた。
あの稻塚がむく/\と動き出しはしないか、一つ一つ大きな笠を被た狸になつて、やがては誘ひ合ひ、頷きかはし、寄合つて手を繋ぎ、振向いて見返るのもあつて、けた/\と笑出したら何うだらう。……それはまだ與し易い。宿縁に因つて佛法を信じ、靈地を巡拜すると聞く、あの海豚の一群が野山の霧を泳いで順々に朦朧と列を整へて、ふかりふかりと浮いつ沈んつ音なく頭を進めるのに似て、稻塚の藁の形は一つ一つ其の頂いた幻の大な笠の趣がある。……
いや、串戲ではない、が、ふと、そんな事を思つたのも、餘り夜たゞ一色の底を、靜に搖つて動く流の音に漾はされて、心もうはの空になつたのであらう……と。
何も體裁を言ふには當らない、ぶちまけて言へば、馬鹿な、糸七は……狐狸とは言ふまい――あたりを海洋に變へた霧に魅まれさうに成つたのであらう、然うらしい……
で幽谷の蘭の如く、一人で聞いて居た、卷莨を、其處から引返しざまに流に棄てると、眞紅な莟が消えるやうに、水までは屆かず霧に吸はれたのを確と見た。が、すぐに踏掛けた橋の土はふわ/\と柔かな氣がした。
それからである。
恁る折しも三寶ヶ辻で、又提灯に出會つた。
もとの三寶ヶ辻まで引返すと、丁どいつかの時と殆ど同じ處、その温泉の町から折曲一つ折れて奧の院參道へあらたまる釣橋の袂へ提灯がふうわりと灯も仄白んで顯はれた。
糸七は立停つた。
忽然として、仁王が鷲掴みにするほど大きな提灯に成らうも知れない。夜氣は――夜氣は略似て居るが、いま雨は降らない、けれども灯の角度が殆ど同じだから、當座仕込の南方學に教へられた處によれば、此の場合、偶然エルモの火を心して見る事が出來ようと思つたのである。
――違ふ、提灯が動かない霧に据つたまゝの趣ながら、靜にやゝ此方へ近づいたと思ふと、もう違ふも違ひすぎた――そんな、古蓑で頬被りをした親爺には似てもつかぬ。髮の艶々と黒いのと、色のうつくしく白い顏が、丈だちすらりとして、ほんのり見える。
婦人が、いま時分、唯一人。
およそ、積つても知れるが、前刻、旅館を出てから今になるまで、糸七は人影にも逢はなかつた。成程、くらやみの底を拔けば村の地へ足は着かう。が、一里あまり奧の院まで、曠野の杜を飛々に心覺えの家數は六七軒と數へて十に足りない、この心細い渺漠たる霧の中を何處へ吸はれて行くのであらう。里馴れたものといへば、たゞ遙々と畷を奧下りに連つた稻塚の數ばかりであるのに。――然も村里の女性の風情では斷じてない。
霧は濡色の紗を掛けた、それを透いて、却つて柳の薄い朧に、霞んだ藍か、いや、淡い紫を掛けたやうな衣の彩織で、しつとりともう一枚羽織はおなじやうで、それよりも濃く黒いやうに見えた。
時に、例の提灯である、それが膝のあたりだから、褄は消えた、而して、胸の帶が、空近くして猶且つ雲の底に隱れた月影が、其處にばかり映るやうに艶を消しながら白く光つた。
唯、こゝで言ふのは、言ふのさへ、餘り町じみるが、あの背負揚とか言ふものゝ、灯の加減で映るのだらうか、ちら/\と……いや、霧が凝つたから、花片、緋の葉、然うは散らない、すツすツと細く、毛引の雁金を紅で描いたやうに提灯に映るのが、透通るばかり美しい。
「今晩は。」
此の靜寂さ、いきなり聲をかけて行違つたら、耳元で雷……は威がありすぎる、それこそ梟が法螺を吹くほどに淑女を驚かさう、默つてぬつと出たら、狸が泳ぐと思はれよう。
こゝは動かないで居るに限る。
第一、あの提灯の小山のやうに明るくなるのを、熟として待つ筈だ。
糸七は、嘗て熱海にも兩三度入湯した事があつて、同地に知己の按摩がある。療治が達しやで、すこし目が見える、夜話が實に巧い、職がらで夜戸出が多い、其のいろ/\な話であるが、先づ水口園の前の野原の眞中で夜なかであつた、茫々とした草の中から、足もとへ、むく/\と牛の突立つやうに起上つた大漢子が、いきなり鼻の先へ大きな握拳を突出した、「マツチねえか。」「身ぐるみ脱ぎます――あなたの前でございますが。……何、此の界隈トンネル工事の勞働しやが、醉拂つて寐ころがつて居た奴なんで。しかし、其の時は自分でも身に覺えて、ぐわた/\ぶる/\と震へましてな、へい。」まだある、新温泉の別莊へ療治に行つた皈りがけ、それが、眞夜中、
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