遺稿
泉鏡花

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(例)ふら/\
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 この無題の小説は、泉先生逝去後、机邊の篋底に、夫人の見出されしものにして、いつ頃書かれしものか、これにて完結のものか、はたまた未完結のものか、今はあきらかにする術なきものなり。昭和十四年七月號中央公論掲載の、「縷紅新草」は、先生の生前發表せられし最後のものにして、その完成に盡されし努力は既に疾を内に潜めゐたる先生の肉體をいたむる事深く、其後再び机に對はれしこと無かりしといふ。果して然らばこの無題の小説は「縷紅新草」以前のものと見るを至當とすべし。原稿は稍古びたる半紙に筆と墨をもつて書かれたり。紙の古きは大正六年はじめて萬年筆を使用されし以前に購はれしものを偶々引出して用ひられしものと覺しく、墨色は未だ新しくして此の作の近き頃のものたる事を證す。主人公の名の糸七は「縷紅新草」のそれとひとしく、點景に赤蜻蛉のあらはるゝ事も亦相似たり。「どうもかう怠けてゐてはしかたが無いから、春になつたら少し稼がうと思つてゐます。」と先生の私に語られしは昨年の暮の事なりき。恐らく此の無題の小説は今年のはじめに起稿されしものにはあらざるか。
 雜誌社としては無題を迷惑がる事察するにあまりあれど、さりとて他人がみだりに命題すべき筋合にあらざるを以て、強て其のまゝ掲出すべきことを希望せり。(水上瀧太郎附記)
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 伊豆の修禪寺の奧の院は、いろは假名四十七、道しるべの石碑を畷、山の根、村口に數へて、ざつと一里餘りだと言ふ、第一のいの碑はたしか其の御寺の正面、虎溪橋に向つた石段の傍にあると思ふ……ろはと數へて道順ににのあたりが俗に釣橋釣橋と言つて、渡ると小學校がある、が、それを渡らずに右へ※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]るとほの碑に續く、何だか大根畠から首をもたげて指示しをするやうだけれど、此のお話に一寸要があるので、頬被をはづして申して置く。
 もう温泉場からその釣橋へ行く道の半ばからは、一方が小山の裙、左が小流を間にして、田畑に成る、橋向ふへ※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]ると、山の裙は山の裙、田畑は田畑それなりの道續きが、大畝りして向ふに小さな土橋の見えるあたりから、自から靜かな寂しい參拜道となつて、次第に俗地を遠ざかる思ひが起るのである。
 土地では弘法樣のお祭、お祭といつて居るが春秋二季の大式日、月々の命日は知らず、不斷、この奧の院は、長々と螺線をゆるく田畝の上に繞らした、處々、萱薄、草草の茂みに立つたしるべの石碑を、杖笠を棄てゝ彳んだ順禮、道しやの姿に見せる、それとても行くとも皈るともなく※[#「(火+火)/訊のつくり」、第4水準2−79−80]然として獨り佇むばかりで、往來の人は殆どない。
 またそれだけに、奧の院は幽邃森嚴である。畷道を桂川の上流に辿ると、迫る處怪石巨巖の磊々たるはもとより古木大樹千年古き、楠槐の幹も根も其のまゝ大巖に化したやうなのが※[#「壘」の「土」に代えて「糸」、第3水準1−90−24]々と立聳えて、忽ち石門砦高く、無齋式、不精進の、わけては、病身たりとも、がたくり、ふら/\と道わるを自動車にふんぞつて來た奴等を、目さへ切塞いだかと驚かれる、が、慈救の橋は、易々と欄干づきで、靜に平かな境内へ、通行を許さる。
 下車は言ふまでもなからう。
 御堂は颯と松風よりも杉の香檜の香の清々しい森森とした樹立の中に、青龍の背をさながらの石段の上に玉面の獅子頭の如く築かれて、背後の大碧巖より一筋水晶の瀧が杖を鳴らして垂直に落ちて仰ぐも尊い。
 境内わきの、左手の庵室、障子を閉して、……たゞ、假に差置いたやうな庵ながら構は縁が高い、端近に三寶を二つ置いて、一つには横綴の帳一册、一つには奉納の米袋、ぱら/\と少しこぼれて、おひねりといふのが捧げてある、眞中に硯箱が出て、朱書が添へてある。これは、俗名と戒名と、現當過去、未來、志す處の差によつて、おもひ/\に其の姓氏佛號を記すのであらう。
「お札を頂きます。」
 ――お札は、それは米袋に添へて三寶に調へてある、其のまゝでもよかつたらうが、もうやがて近い……年頭御慶の客に對する、近來流行の、式臺は惡冷く外套を脱ぐと嚔が出さうなのに御内證は煖爐のぬくもりにエヘンとも言はず、……蒔繪の名札受が出て居るのとは些と勝手が違ふやうだから―
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