と灯れ据つて、いびつに大い。……軒へ立てる高張は御存じの事と思ふ、やがて其のくらゐだけれども、夜の畷のこんな時に、唯ばかりでは言ひ足りない。たとへば、翳して居る雨の番傘をばさりと半分に切つて、やゝふくらみを繼足したと思へばいゝ。
樹蔭の加減か、雲が低いか、水濛が深いのか、持つて居るものゝ影さへなくて、其の[#「其の」に「原」の注記]其の提灯ばかり。
つらつら/\と、動くのに濡色が薄油に、ほの白く艶を取つて、降りそゝぐ雨を露に散らして、細いしぶきを立てると、その飛ぶ露の光るやうな片輪にもう一つ宙にふうわりと仄あかりの輪を大きく提灯の形に卷いて、且つ其のづぶ濡の色を一息に[#「一息に」に「原」の注記]一息に熟と撓めながら、風も添はずに寄つて來る。
姿が華奢だと、女一人くらゐは影法師にして倒に吸込みさうな提灯の大さだから、一寸皆聲を※[#「添」のさんずいに代えて「口」、736−7]んだ。
「田の水が茫と映ります、あの明だと、縞だの斑だの、赤いのも居ますか、蛙の形が顯はれて見えませうな。」
運轉手がいふほど間近になつた。同時に自動車が寐て居る大な牛のやうに、其の灯影を遮つたと思ふと、スツと提灯が縮まつて普通の手提に小さくなつた。汽車が、其の眞似をする古狸を、線路で轢殺したといふ話が僻地にはいくらもある。文化が妖怪を減ずるのである。が、すなほに思へば、何かの都合で圖拔けに大きく見えた持手が、吃驚した拍子にもとの姿を顯はしたのであらう。
「南無、觀世音……」
打念じたる、これを聞かれよ。……村方の人らしい、鳴きながらの蛙よりは、泥鼈を抱いて居さうな、雫の垂る、雨蓑を深く着た、蓑だといつて、すぐに笠とは限らない、古帽子だか手拭だか煤けですつぱりと頭を包んだから目鼻も分らず、雨脚は濁らぬが古ぼけた形で一濡れになつて顯はれたのが、――道巾は狹い、身近な女二人に擦違はうとして、ぎよツとしたやうに退ると立直つて提灯を持直した。
音を潜めたやうに、跫音を立てずに山際について其のまゝ行過ぎるのかと思ふと、ひつたりと寄つて、運轉手の肩越しに糸七の横顏へ提灯を突出した。
蛙かと思ふ目が二つ、くるツと映つた。
すぐに、もとへ返して、今度は向ふ※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]りに、娘分の顏へ提灯を上げた。
爾時である、菩薩の名を唱へたのは――
「南無觀世音。」
續けて又唱へた。
「南無觀世音……」
この耳近な聲に、娘分は湯上りに化粧した頸を垂れ、前髮でうつむいた、その白粉の香の雨に傳ふ白い顏に、一條ほんのりと紅を薄くさしたのは、近々と蓑の手の寄せた提灯の――模樣かと見た――朱の映つたのである、……あとで聞くと、朱で、かなだ、「こんばんは」と記したのであつた。
このまざ/\と口を聞くが、聲のない挨拶には誰も口へ出して會釋を返す機を得なかつたが、菩薩の稱號に、其の娘分に續いて、糸七の女房も掌を合はせた。
「南無觀世音……」
又繰返しながら、蓑の下の提灯は、洞の口へ吸はるゝ如く、奧在所の口を見るうちに深く入つて、肩から裙へすぼまつて、消えた。
「まるで嘲笑ふやうでしたな、歸りがけに、又あの梟めが、まだ鳴いて居ます――爺い……老爺らしうございましたぜ。……爺も驚きましたらう、何しろ思ひがけない雨のやみに第一ご婦人です……氣味の惡さに爺もお慈悲を願つたでせうが、觀音樣のお庇で、此方が助かりました、……一息冷汗になりました。」
する/\と車は早い。
「觀音樣は――男ですか、女で居らつしやるんでございますか。」
響の應ずる如く、
「何とも言へない、うつくしい女のお姿ですわ。」
と、淺草寺の月々のお茶湯日を、やがて滿願に近く、三年の間一度も缺かさない姪がいつた。
「まつたく、然うなんでございますか、旦那。」
「それは、その、何だね……」
いゝ鹽梅に、車は、雨もふりやんだ、青葉の陰の濡色の柱の薄り青い、つゝじのあかるい旅館の玄關へ入つたのである。
出迎へて口々にお皈んなさいましをいふのに答へて、糸七が、
「唯今、夜遊の番傘が皈りました――熊澤さん、今のはだね、修禪寺の然るべき坊さんに聞きたまへ。」
天狗の火、魔の燈――いや、雨の夜の畷で不思議な大きな提灯を視たからと言つて敢て圖に乘つて、妖怪を語らうとするのではない、却つて、偶然の或場合には其が普通の影象らしい事を知つて、糸七は一先づ讀しやとゝもに安心をしたいと思ふのである。
學問、といつては些と堅過ぎよう、勉強はすべきもの、本は讀むべきもので、後日、紀州に棲まるゝ著名の碩學、南方熊楠氏の隨筆を見ると、其の龍燈に就て、と云ふ一章の中に、おなじ紀州田邊の絲川恒太夫といふ老人、中年まで毎度野諸村を行商した、秋の末らしい……一夜、新鹿村の湊に宿る、此の湊の川上に淺谷と稱ふるの
前へ
次へ
全9ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング