な、と畜生め、何でもといつて貸してくれた、と番傘に柳ばしと筆ぶとに打つけたのを、友だち中へ見せびらかすのが晴曇りにかゝはらない。况や待望の雨となると、長屋近間の茗荷畠や、水車なんぞでは氣分が出ないとまだ古のまゝだつた番町へのして清水谷へ入り擬寶珠のついた辨慶橋で、一振柳を胸にたぐつて、ギクリと成つて……あゝ、逢ひたい。顏が見たい。
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こたまだ、こたまだ
こたまだ……
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其の邊の蛙の聲が、皆こたまだ、こたまだ、と鳴くといふのである。
唯、糸七の遠い雪國の其の小提灯の幽靈の※[#「彳+尚」、第3水準1−84−33]※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]ふ場所が小玉小路、斷然話によそへて拵へたのではない、とすると、蛙に因んで顯著なる奇遇である。かたり草、言の花は、蝶、鳥の翼、嘴には限らない、其の種子は、地を飛び、空をめぐつて、いつ其の實を結ばうも知れないのである、――此なども、道芝、仇花の露にも過ぎない、實を結ぶまではなくても、幽な葉を裝ひ儚い色を彩つて居る、たゞし其にさへ少からぬ時を經た。
明けていふと、活東の其の柳橋の番傘を隨筆に撰んだ時は、――其以前、糸七が小玉小路で蛙の聲を聞いてから、ものゝ三十年あまりを經て居たが、胸の何處に潜み、心の何處にかくれたか、翼なく嘴なく、色なく影なき話の種子は、小机からも、硯からも、其の形を顯はさなかつた、まるで消えたやうに忘れて居た。
それを、其の折から尚ほ十四五年ののち、修禪寺の奧の院路三寶ヶ辻に彳んで、蛙を聞きながら、ふと思出した次第なのである。
悠久なるかな、人心の小さき花。
あゝ、悠久なる……
そんな事をいつたつて、わかるやうな女連ではない。
「――一つ此の傘を※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]はして見ようか。」
糸七は雨のなかで、――柳橋を粗と話したのである。
「今いつた活東が辨慶橋でやつたやうに。」
「およしなさい、澤山。」
と女房が聲ばかりでたしなめた。田の縁に並んだが中に娘分が居ると、もうその顏が見えないほど暗かつた。
「でも、妙ね、然ういへば……何ですつて、蛙の聲が、其の方には、こがれる女の小玉だ、小玉だと聞こえたんですつて、こたまだ。あら、眞個だ、串戲ぢやないわ、叔母さん、こたまだ、こたまだツて鳴いてるわね、中でも大きな聲なのねえ、叔母さん。」
「まつたくさ、私もをかしいと思つて居るほどなんだよ、氣の所爲だわね、……氣の所爲といへば、新ちやんどう、あの一齊に鳴く聲が、活東さんといやしない?……
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かつと、かつと、
かつと、……
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それ、揃つて、皆して……」
「むゝ、聞こえる、――かつと、かつと――か、然ういへば。――成程これはおもしろい。」
女房のいふことなぞは滅多に應といつた事のない奴が、これでは濟むまい、蛙の聲を小玉小路で羨んだ、その昔の空腹を忘却して、圖に乘氣味に、田の縁へ、ぐつと踞んで聞込む氣で、いきなり腰を落しかけると、うしろ斜めに肩を並べて廂の端を借りて居た運轉手の帽子を傘で敲いて驚いたのである。
「あゝ、これは何うも。」
其の癖、はじめは運轉手が、……道案内の任がある、且つは婦連のために頭に近い梟の魔除の爲に、降るのに故と臺から出て、自動車に引添つて頭から黒扮裝の細身に腕を組んだ、一寸探偵小説のやみじあひの※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]繪に似た形で屹として彳んで居たものを、暗夜の畷の寂しさに、女連が世辭を言つて、身近におびき寄せたものであつた。
「ごめんなさい、熊澤さん。」
こんな時の、名も頼もしい運轉手に娘分の方が――其のかはり糸七のために詫をいつて、
「ね、小玉だ、小玉だ、……かつと、かつと……叔母さんのいふやうに聞こえるわね。」
「蛙なかまも、いづれ、さかり時の色事でございませう、よく鳴きますな、調子に乘つて、波を立てゝ鳴きますな、星が降ると言ひますが、あの聲をたゝく雨は花片の音がします。」
月があると、晝間見た、畝に咲いた牡丹の影が、こゝへ重つて映るであらう。
「旦那。」
「………」
妙に改つた聲で、
「提灯が來ますな――むかふから提灯ですね。」
「人通りがあるね。」
「今時分、やつぱり在方の人でせうね。」
娘分のいふのに、女房は默つて見た。
温泉の町入口はづれと言つてもよからう、もう、あの釣橋よりも此方へ、土を二三尺離れて一つ灯れて來るのであるが、女連ばかりとは言ふまい、糸七にしても、これは、はじめ心着いたのが土地のもので樣子の分つた運轉手で先づ可かつた、然うでないと、いきなり目の前へ梟の腹で鬼火が燃えたやうに怯えたかも知れない。……見える其の提灯が、むく/\
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