震わすと、後毛《おくれげ》がまたはらはら。
「寒くなった、私、もう寝るわ。」
「御寝《ぎょし》なります、へい、唯今《ただいま》女中《おんな》を寄越しまして、お枕頭《まくらもと》もまた、」
「いいえ、煙草《たばこ》は飲まない、お火なんか沢山。」
「でも、その、」
「あの、しかしね、間違えて外の座敷へでも行っていらっしゃりはしないか、気をつけておくれ。」
「それはもう、きっと、まだ、方々見させてさえござりまする。」
「そうかい、此家《うち》は広いから、また迷児《まいご》にでもなってると悪い、可愛い坊ちゃんなんだから。」とぴたりと帯に手を当てると、帯しめの金金具《きんかなぐ》が、指の中でパチリと鳴る。
 先刻《さっき》から、ぞくぞくして、ちりけ元は水のような老番頭、思いの外、女客の恐れぬを見て、この分なら、お次へ四天王にも及ぶまいと、
「ええ、さようならばお静《しずか》に。」
「ああ、御苦労でした。」と、いってすッと立つ、汽車の中からそのままの下じめがゆるんだか、絹足袋の先へ長襦袢、右の褄《つま》がぞろりと落ちた。
「お手水《ちょうず》。」
「いいえ、寝るの。」
「はッ。」と、いうと、腰を上げざまに襖《ふすま》を一枚、直ぐに縁側へ辷《すべ》って出ると、呼吸《いき》を凝《こら》して二人ばかり居た、恐《こわ》いもの見たさの徒《てあい》、ばたり、ソッと退《の》く気勢《けはい》。
「や。」という番頭の声に連れて、足も裾《すそ》も巴《ともえ》に入乱るるかのごとく、廊下を彼方《あなた》へ、隔ってまた跫音《あしおと》、次第に跫音。この汐《しお》に、そこら中の人声を浚《さら》えて退《の》いて、果《はて》は遥《はるか》な戸外《おもて》二階の突外《とっぱず》れの角あたりと覚しかった、三味線《さみせん》の音《ね》がハタと留《や》んだ。
 聞澄《ききすま》して、里見夫人、裳《もすそ》を前へ捌《さば》こうとすると、うっかりした褄がかかって、引留められたようによろめいたが、衣裄《いこう》に手をかけ、四辺《あたり》を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》し、向うの押入をじっと見る、瞼《まぶた》に颯《さっ》と薄紅梅。

       九

 煙草盆《たばこぼん》、枕《まくら》、火鉢、座蒲団《ざぶとん》も五六枚。
(これは物置だ。)と立花は心付いた。
 はじめは押入と、しかしそれにしては居周囲《いまわり》が広く、破れてはいるが、筵《むしろ》か、畳か敷いてもあり、心持四畳半、五畳、六畳ばかりもありそうな。手入をしない囲《かこい》なぞの荒れたのを、そのまま押入に遣《つか》っているのであろう、身を忍ぶのは誂《あつら》えたようであるが。
(待て。)
 案内をして、やがて三由屋の女中が、見えなくなるが疾《はや》いか、ものをいうよりはまず唇の戦《おのの》くまで、不義ではあるが思う同士。目を見交《みかわ》したばかりで、かねて算した通り、一先《ひとま》ず姿を隠したが、心の闇《やみ》より暗かった押入の中が、こう物色の出来得るは、さては目が馴《な》れたせいであろう。
 立花は、座敷を番頭の立去ったまで、半時ばかりを五六時間、待飽倦《まちあぐ》んでいるのであった。
(まず、可《よ》し。)
 と襖《ふすま》に密《そっ》と身を寄せたが、うかつに出らるる数《すう》でなし、言《ことば》をかけらるる分でないから、そのまま呼吸《いき》を殺して彳《たたず》むと、ややあって、はらはらと衣《きぬ》の音信《おとない》。
 目前《めさき》へ路《みち》がついたように、座敷をよぎる留南奇《とめぎ》の薫《かおり》、ほの床《ゆか》しく身に染むと、彼方《かなた》も思う男の人香《ひとか》に寄る蝶《ちょう》、処を違《たが》えず二枚の襖を、左の外、立花が立った前に近づき、
「立花さん。」
「…………」
「立花さん。」
 襖の裏へ口をつけるばかりにして、
「可《い》いんですか。」
「まだよ、まだ女中が来るッていうから少々、あなた、靴まで隠して来たんですか。」
 表に夫人の打微笑《うちほほえ》む、目も眉も鮮麗《あざやか》に、人丈《ひとたけ》に暗《やみ》の中に描かれて、黒髪の輪郭が、細く円髷《まげ》を劃《くぎ》って明《あかる》い。
 立花も莞爾《にっこり》して、
「どうせ、騙《だま》すくらいならと思って、外套《がいとう》の下へ隠して来ました。」
「旨《うま》く行ったのね。」
「旨く行《ゆ》きましたね。」
「後で私を殺しても可《い》いから、もうちと辛抱なさいよ。」
「お稲《いな》さん。」
「ええ。」となつかしい低声《こごえ》である。
「僕は大空腹。」
「どこかで食べて来た筈《はず》じゃないの。」
「どうして貴方《あなた》に逢《あ》うまで、お飯《まんま》が咽喉《のど》へ入るもんですか。」
「まあ……」
 黙ってしばらくして、
「さあ。」
 手を中へ差入れた、紙包を密《そっ》と取って、その指が搦《から》む、手と手を二人。
 隔《へだて》の襖は裏表、両方の肩で圧《お》されて、すらすらと三寸ばかり、暗き柳と、曇れる花、淋《さみ》しく顔を見合せた、トタンに跫音《あしおと》、続いて跫音、夫人は衝《つ》と退《の》いて小さな咳《しわぶき》。
 さそくに後を犇《ひし》と閉め、立花は掌《たなそこ》に据えて、瞳《ひとみ》を寄せると、軽く捻《ひね》った懐紙《ふところがみ》、二隅《ふたすみ》へはたりと解けて、三ツ美《うつくし》く包んだのは、菓子である。
 と見ると、白と紅《くれない》なり。
「はてな。」
 立花は思わず、膝《ひざ》をついて、天井を仰いだが、板か、壁か明かならず、低いか、高いか、定《さだか》でないが、何となく暗夜《やみよ》の天まで、布|一重《ひとえ》隔つるものがないように思われたので、やや急心《せきごころ》になって引寄せて、袖《そで》を見ると、着たままで隠れている、外套《がいとう》の色が仄《ほのか》に鼠。
 菓子の色、紙の白きさえ、ソレかと見ゆるに、仰げば節穴かと思う明《あかり》もなく、その上、座敷から、射《さ》し入るような、透間《すきま》は些《すこ》しもないのであるから、驚いて、ハタと夫人の賜物《たまもの》を落して、その手でじっと眼《まなこ》を蔽《おお》うた。
 立花は目よりもまず気を判然《はっきり》と持とうと、両手で顔を蔽う内、まさに人道を破壊しようとする身であると心付いて、やにわに手を放して、その手で、胸を打って、がばと眼《まなこ》を開いた。
 なぜなら、今そうやって跪《ひざまず》いた体《なり》は、神に対し、仏に対して、ものを打念《うちねん》ずる時の姿勢であると思ったから。
 あわれ、覚悟の前ながら、最早《もは》や神仏を礼拝し得べき立花ではないのである。
 さて心がら鬼のごとき目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》くと、余り強く面《おもて》を圧していた、ためであろう、襖一重の座敷で、二人ばかりの女中と言葉を交わす夫人の声が、遠く聞えて、遥《はるか》に且つ幽《かすか》に、しかも細く、耳の端《はた》について、震えるよう。
 それも心細く、その言う処を確めよう、先刻《さき》に老番頭と語るのをこの隠れ家で聞いたるごとく、自分の居処《いどころ》を安堵《あんど》せんと欲して、立花は手を伸べて、心覚えの隔ての襖に触れて試《み》た。
 人の妻と、かかる術《すべ》して忍び合うには、疾《と》く我がためには、神なく、物なく、父なく、母なく、兄弟なく、名誉なく、生命《いのち》のないことを悟っていたけれども、ただ世に里見夫人のあるを知って、神仏より、父より、母より、兄弟より、名誉より、生命《いのち》よりは便《たより》にしたのであるが。
 こはいかに掌《たなそこ》は、徒《いたずら》に空《くう》を撫《な》でた。
 慌《あわただ》しく丁《ちょう》と目の前へ、一杯に十指を並べて、左右に暗《やみ》を掻探《かいさぐ》ったが、遮るものは何にもない。
 さては、暗《やみ》の中に暗をかさねて目を塞《ふさ》いだため、脳に方角を失ったのであろうと、まず慰めながら、居直って、今まで前にしたと反対の側を、衝《つ》と今度は腕《かいな》を差出すようにしたが、それも手ばかり。
 はッと俯向《うつむ》き、両方へ、前後に肩を分けたけれども、ざらりと外套の袖の揺れたるのみ。
 かっと逆上《のぼ》せて、堪《たま》らずぬっくり突立《つッた》ったが、南無三《なむさん》物音が、とぎょッとした。
 あッという声がして、女中が襖をと思うに似ず、寂莫《せきばく》として、ただ夫人のものいうと響くのが、ぶるぶると耳について、一筋ずつ髪の毛を伝うて動いて、人事|不省《ふせい》ならんとする、瞬間に異ならず。
 同時に真直《まっすぐ》に立った足許に、なめし皮の樺色《かばいろ》の靴、宿を欺くため座敷を抜けて持って入ったのが、向うむきに揃っていたので、立花は頭から悚然《ぞっ》とした。
 靴が左から……ト一ツ留《とま》って、右がその後から……ト前へ越すと、左がちょい、右がちょい。
 たとえば歩行の折から、爪尖《つまさき》を見た時と同じ状《さま》で、前途《ゆくて》へ進行をはじめたので、※[#「口+阿」、第4水準2−4−5]呀《あなや》と見る見る、二|間《けん》三|間《げん》。
 十間、十五間、一町、半、二町、三町、彼方《かなた》に隔るのが、どうして目に映るのかと、怪《あやし》む、とあらず、歩を移すのは渠《かれ》自身、すなわち立花であった。
 茫然《ぼうぜん》。
 世に茫然という色があるなら、四辺《あたり》の光景は正しくそれ。月もなく、日もなく、樹もなく、草もなく、路《みち》もない、雲に似て踏みごたえがあって、雪に似て冷《つめた》からず、朧夜《おぼろよ》かと思えば暗く、東雲《しののめ》かと見れば陰々たる中に、煙草盆、枕、火鉢、炬燵櫓《こたつやぐら》の形など左右、二列《ふたなら》びに、不揃《ぶぞろ》いに、沢庵《たくあん》の樽《たる》もあり、石臼《いしうす》もあり、俎板《まないた》あり、灯のない行燈《あんどう》も三ツ四ツ、あたかも人のない道具市。
 しかもその火鉢といわず、臼といわず、枕といわず、行燈といわず、一斉に絶えず微《かすか》に揺《ゆら》いで、国が洪水に滅ぶる時、呼吸《いき》のあるは悉《ことごと》く死して、かかる者のみ漾《ただよ》う風情、ただソヨとの風もないのである。

       十

 その中《うち》に最も人間に近く、頼母《たのも》しく、且つ奇異に感じられたのは、唐櫃《からびつ》の上に、一個八角時計の、仰向《あおむ》けに乗っていた事であった。立花は夢心地にも、何等か意味ありげに見て取ったので、つかつかと靴を近《ちかづ》けて差覗《さしのぞ》いたが、ものの影を見るごとき、四辺《あたり》は、針の長短と位地を分ち得るまでではないのに、判然《はっきり》と時間が分った。しかも九時半の処を指して、時計は死んでいるのであるが、鮮明《あざやか》にその数字さえ算《かぞ》えられたのは、一点、蛍火《ほたるび》の薄く、そして瞬《またたき》をせぬのがあって、胸のあたりから、斜《ななめ》に影を宿したためで。
 手を当てると冷《つめた》かった、光が隠れて、掌《たなそこ》に包まれたのは襟飾《えりかざり》の小さな宝石、時に別に手首を伝い、雪のカウスに、ちらちらと樹《こ》の間から射《さ》す月の影、露の溢《こぼ》れたかと輝いたのは、蓋《けだ》し手釦《てぼたん》の玉である。不思議と左を見詰めると、この飾もまた、光を放って、腕《かいな》を開くと胸がまた晃《きらめ》きはじめた。
 この光、ただに身に添うばかりでなく、土に砕け、宙に飛んで、翠《みどり》の蝶《ちよう》の舞うばかり、目に遮るものは、臼《うす》も、桶《おけ》も、皆これ青貝摺《あおがいずり》の器《うつわ》に斉《ひとし》い。
 一足進むと、歩くに連れ、身の動くに従うて、颯《さっ》と揺れ、溌《ぱっ》と散って、星一ツ一ツ鳴るかとばかり、白銀《しろがね》黄金《こがね》、水晶、珊瑚珠《さんごじゅ》、透間《すきま》もなく鎧《よろ》うたるが、月に照添うに露|違《たが》わず、され
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