くないのである。銚子《ちょうし》は二本ばかり、早くから並んでいるのに。
 赤福の餅《もち》の盆、煮染《にしめ》の皿も差置いたが、猪口《ちょく》も数を累《かさ》ねず、食べるものも、かの神路山《かみじやま》の杉箸《すぎばし》を割ったばかり。
 客は丁字形《ていじけい》に二つ並べた、奥の方の縁台に腰をかけて、掌《てのひら》で項《うなじ》を圧《おさ》えて、俯向《うつむ》いたり、腕を拱《こまぬ》いて考えたり、足を投げて横ざまに長くなったり、小さなしかも古びた茶店の、薄暗い隅なる方《かた》に、その挙動《ふるまい》も朦朧《もうろう》として、身動《みうごき》をするのが、余所目《よそめ》にはまるで寝返《ねがえり》をするようであった。
 また寝られてなろうか!
「あれ、お客様まだこっちのお銚子もまるでお手が着きませぬ。」
 と婆々は片づけにかかる気で、前の銚子を傍《かたえ》へ除《の》けようとして心付く、まだずッしりと手に応《こた》えて重い。
「お燗を直しましょうでござりますか。」
 顔を覗《のぞ》き込むがごとくに土間に立った、物腰のしとやかな、婆々は、客の胸のあたりへその白髪頭《しらがあたま》を差出したの
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