は手を伸べて、心覚えの隔ての襖に触れて試《み》た。
 人の妻と、かかる術《すべ》して忍び合うには、疾《と》く我がためには、神なく、物なく、父なく、母なく、兄弟なく、名誉なく、生命《いのち》のないことを悟っていたけれども、ただ世に里見夫人のあるを知って、神仏より、父より、母より、兄弟より、名誉より、生命《いのち》よりは便《たより》にしたのであるが。
 こはいかに掌《たなそこ》は、徒《いたずら》に空《くう》を撫《な》でた。
 慌《あわただ》しく丁《ちょう》と目の前へ、一杯に十指を並べて、左右に暗《やみ》を掻探《かいさぐ》ったが、遮るものは何にもない。
 さては、暗《やみ》の中に暗をかさねて目を塞《ふさ》いだため、脳に方角を失ったのであろうと、まず慰めながら、居直って、今まで前にしたと反対の側を、衝《つ》と今度は腕《かいな》を差出すようにしたが、それも手ばかり。
 はッと俯向《うつむ》き、両方へ、前後に肩を分けたけれども、ざらりと外套の袖の揺れたるのみ。
 かっと逆上《のぼ》せて、堪《たま》らずぬっくり突立《つッた》ったが、南無三《なむさん》物音が、とぎょッとした。
 あッという声がして、女
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