《ゆか》しく身に染むと、彼方《かなた》も思う男の人香《ひとか》に寄る蝶《ちょう》、処を違《たが》えず二枚の襖を、左の外、立花が立った前に近づき、
「立花さん。」
「…………」
「立花さん。」
 襖の裏へ口をつけるばかりにして、
「可《い》いんですか。」
「まだよ、まだ女中が来るッていうから少々、あなた、靴まで隠して来たんですか。」
 表に夫人の打微笑《うちほほえ》む、目も眉も鮮麗《あざやか》に、人丈《ひとたけ》に暗《やみ》の中に描かれて、黒髪の輪郭が、細く円髷《まげ》を劃《くぎ》って明《あかる》い。
 立花も莞爾《にっこり》して、
「どうせ、騙《だま》すくらいならと思って、外套《がいとう》の下へ隠して来ました。」
「旨《うま》く行ったのね。」
「旨く行《ゆ》きましたね。」
「後で私を殺しても可《い》いから、もうちと辛抱なさいよ。」
「お稲《いな》さん。」
「ええ。」となつかしい低声《こごえ》である。
「僕は大空腹。」
「どこかで食べて来た筈《はず》じゃないの。」
「どうして貴方《あなた》に逢《あ》うまで、お飯《まんま》が咽喉《のど》へ入るもんですか。」
「まあ……」
 黙ってしばらくし
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