ける幻と誤るであろう。袖口《そでくち》、八口《やつくち》、裳《もすそ》を溢《こぼ》れて、ちらちらと燃ゆる友染《ゆうぜん》の花の紅《くれない》にも、絶えず、一叢《ひとむら》の薄雲がかかって、淑《つつ》ましげに、その美を擁護するかのごとくである。
 岐阜《ぎふ》県××町、――里見稲子《さとみいなこ》、二十七、と宿帳に控えたが、あえて誌《しる》すまでもない、岐阜の病院の里見といえば、家族雇人《やからうから》一同神のごとくに崇拝する、かつて当家の主人《あるじ》が、難病を治した名医、且つ近頃三由屋が、株式で伊勢の津《つ》に設立した、銀行の株主であるから。
 晩景、留守を預るこの老番頭にあてて、津に出張中の主人《あるじ》から、里見氏の令夫人参宮あり、丁寧に宿を参らすべき由、電信があったので、いかに多数の客があっても、必ず、一室《ひとま》を明けておく、内証の珍客のために控えの席へ迎え入れて、滞《とどこお》りなく既に夕餉《ゆうげ》を進めた。
 されば夫人が座の傍《かたわら》、肩掛、頭巾《ずきん》などを引掛《ひっか》けた、衣桁《いこう》の際《きわ》には、萌黄《もえぎ》の緞子《どんす》の夏衾《なつぶすま》
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