五

「はッ。」
 古市《ふるいち》に名代《なだい》の旅店、三由屋《みよしや》の老番頭、次の室《ま》の敷居際にぴたりと手をつき、
「はッ申上げまするでございまする。」
 上段の十畳、一点の汚《よごれ》もない、月夜のような青畳、紫縮緬《むらさきちりめん》ふッくりとある蒲団《ふとん》に、あたかもその雲に乗ったるがごとく、菫《すみれ》の中から抜けたような、装《よそおい》を凝《こら》した貴夫人一人。さも旅疲《たびづかれ》の状《さま》見えて、鼠地《ねずみじ》の縮緬に、麻の葉|鹿《か》の子の下着の端、媚《なまめ》かしきまで膝《ひざ》を斜《ななめ》に、三枚襲《さんまいがさね》で着痩《きや》せのした、撫肩《なでがた》の右を落して、前なる桐火桶《きりひおけ》の縁に、引《ひき》つけた火箸《ひばし》に手をかけ、片手を細《ほっそ》りと懐にした姿。衣紋《えもん》の正しく、顔の気高きに似ず、見好《みよ》げに過ぎて婀娜《あだ》めくばかり。眉の鮮かさ、色の白さに、美しき血あり、清き肌ある女性《にょしょう》とこそ見ゆれ、もしその黒髪の柳濃く、生際《はえぎわ》の颯《さっ》と霞《かす》んだばかりであったら、画《えが》
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