《くるま》が留まって、門《かど》をお叩きなさいまする。」
七
「お気の毒ながらと申して、お宿を断らせました処、連《つれ》が来て泊っている。ともかくも明けい、とおっしゃりますについて、あの、入口の、たいてい原ほどはござります、板の間が、あなた様、道者衆《どうじゃしゅう》で充満《いっぱい》で、足踏《あしぶみ》も出来ません処から、框《かまち》へかけさせ申して、帳場の火鉢を差上げましたような次第で、それから貴女様《あなたさま》がお泊りの筈《はず》、立花が来たと伝えくれい、という事でござりまして。
早速お通し申しましょうかと存じましたなれども、こちら様はお一方《ひとかた》、御婦人でいらっしゃいます事ゆえ念のために、私《わたくし》お伺いに出ました儀で、直ぐにという御意にござりましたで、引返《ひっかえ》して、御案内。ええ、唯今《ただいま》の女が、廊下をお連れ申したでござります。
女が、貴女様このお部屋へ、その立花様というのがお入り遊ばしたのを見て、取って返しましたで、折返して、お支度の程を伺わせに唯今差出しました処、何か、さような者は一向お見えがないと、こうおっしゃいます。またお座敷には、奥方様の他《ほか》に誰方《どなた》もおいでがないと、目を丸くして申しますので、何を寝惚《ねぼ》けおるぞ、汝《てまえ》が薄眠い顔をしておるで、お遊びなされたであろ、なぞと叱言《こごと》を申しましたが、女いいまするには、なかなか、洒落《しゃれ》を遊ばす御様子ではないと、真顔でござりますについて、ええ、何より証拠、土間を見ましてございます。」
いいかけて番頭、片手敷居越に乗出して、
「トその時、お上《あが》りになったばかりのお穿物《はきもの》が見えませぬ、洋服でおあんなさいましたで、靴にござりますな。
さあ、居合せましたもの総立《そうだち》になって、床下まで覗《のぞ》きましたが、どれも札をつけて預りました穿物ばかり、それらしいのもござりませぬで、希有《けう》じゃと申出しますと、いや案内に立った唯今の女は、見す見す廊下をさきへ立って参ったというて、蒼《あお》くなって震えまするわ。
太《いこ》う恐《こわ》がりましてこちらへよう伺えぬと申しますので、手前|駈出《かけだ》して参じましたが、いえ、もし全くこちら様へは誰方もおいでなさりませぬか。」と、穏《おだやか》ならぬ気色である。
夫人、するりと膝をずらして、後へ身を引き、座蒲団の外へ手の指を反《そら》して支《つ》くと、膝を辷《すべ》った桃色の絹のはんけちが、褄《つま》の折端《おりはし》へはらりと溢《こぼ》れた。
「厭《いや》だよ、串戯《じょうだん》ではないよ、穿物がないんだって。」
「御意にござりまする。」
「おかしいねえ。」と眉をひそめた。夫人の顔は、コオトをかけた衣裄《いこう》の中に眉暗く、洋燈《ランプ》の光の隈《くま》あるあたりへ、魔のかげがさしたよう、円髷《まげ》の高いのも艶々《つやつや》として、そこに人が居そうな気勢《けはい》である。
畳から、手をもぎ放すがごとくにして、身を開いて番頭、固くなって一呼吸《ひといき》つき、
「で、ござりまするなあ。」
「お前、そういえば先刻《さっき》、ああいって来たもんだから、今にその人が見えるだろうと、火鉢の火なんぞ、突《つッ》ついていると、何なの、しばらくすると、今の姐《ねえ》さんが、ばたばた来たの。次の室《ま》のそこへちらりと姿を見せたっけ、私はお客が来たと思って、言《ことば》をかけようとする内に、直ぐ忙《せわ》しそうに出て行って、今度来た時には、突然《いきなり》、お支度はって、お聞きだから、変だと思って、誰も来やしないものを。」とさも訝《いぶか》しげに、番頭の顔を熟《じっ》と見ていう。
いよいよ、きょとつき、
「はてさて、いやどうも何でござりまして、ええ、廊下を急足《いそぎあし》にすたすたお通んなすったと申して、成程、跫音《あしおと》がしなかったなぞと、女は申しますが、それは早や、気のせいでござりましょう。なにしろ早足で廊下を通りなすったには相違ござりませぬ、さきへ立って参りました女が、せいせい呼吸《いき》を切って駈けまして、それでどうかすると、背後《うしろ》から、そのお客の身体《からだ》が、ぴったり附着《くッつ》きそうになりまする。」
番頭は気がさしたか、密《そっ》と振返って背後《うしろ》を見た、釜《かま》の湯は沸《たぎ》っているが、塵《ちり》一つ見当らず、こういう折には、余りに広く、且つ余りに綺麗《きれい》であった。
「それがために二三度、足が留まりましたそうにござりまして。」
八
「中にはその立花様とおっしゃるのが、剽軽《ひょうきん》な方で、一番《ひとつ》三由屋をお担ぎなさるのではないかと、申すものもござります
前へ
次へ
全12ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング