伊勢之巻
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)床《ゆか》しき

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)伊勢国|古市《ふるいち》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》す
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 昔男と聞く時は、今も床《ゆか》しき道中姿。その物語に題は通えど、これは東《あずま》の銭なしが、一年《ひととせ》思いたつよしして、参宮を志し、霞《かすみ》とともに立出でて、いそじあまりを三河国《みかわのくに》、そのから衣、ささおりの、安弁当の鰯《いわし》の名に、紫はありながら、杜若《かきつばた》には似もつかぬ、三等の赤切符。さればお紺の婀娜《あだ》も見ず、弥次郎兵衛《やじろべえ》が洒落《しゃれ》もなき、初詣《ういもうで》の思い出草。宿屋の硯《すずり》を仮寝の床に、路《みち》の記の端に書き入れて、一寸《ちょいと》御見《ごけん》に入れたりしを、正綴《ほんとじ》にした今度の新版、さあさあかわりました双六《すごろく》と、だませば小児衆《こどもしゅ》も合点せず。伊勢は七度《ななたび》よいところ、いざ御案内者で客を招けば、おらあ熊野へも三度目《みたびめ》じゃと、いわれてお供に早がわり、いそがしかりける世渡りなり。
  明治三十八乙巳年十月吉日
[#地から4字上げ]鏡花
[#改ページ]

       一

「はい、貴客《あなた》もしお熱いのを、お一つ召上りませぬか、何ぞお食《あが》りなされて下さりまし。」
 伊勢国|古市《ふるいち》から内宮《ないぐう》へ、ここぞ相《あい》の山の此方《こなた》に、灯《ともしび》の淋しい茶店。名物|赤福餅《あかふくもち》の旗、如月《きさらぎ》のはじめ三日の夜嵐に、はたはたと軒を揺《ゆす》り、じりじりと油が減って、早や十二時に垂《なんなん》とするのに、客はまだ帰りそうにもしないから、その年紀頃《としごろ》といい、容子《ようす》といい、今時の品の可《い》い学生風、しかも口数を利かぬ青年なり、とても話対手《はなしあいて》にはなるまい、またしないであろうと、断念《あきら》めていた婆々《ばば》が、堪《たま》り兼ねてまず物優しく言葉をかけた。
 宵から、灯も人声も、往来《ゆきき》の脚も、この前あたりがちょうど切目で、後へ一町、前へ三町、そこにもかしこにも両側の商家軒を並べ、半襟と前垂《まえだれ》の美しい、姐《ねえ》さんが袂《たもと》を連ねて、式《かた》のごとく、お茶あがりまし、お休みなさりまし、お飯《まんま》上りまし、お饂飩《うどん》もござりますと、媚《なま》めかしく呼ぶ中を、頬冠《ほっかむり》やら、高帽やら、菅笠《すげがさ》を被《かぶ》ったのもあり、脚絆《きゃはん》がけに借下駄《かりげた》で、革鞄《かばん》を提げたものもあり、五人づれやら、手を曳《ひ》いたの、一人で大手を振るもあり、笑い興ずるぞめきに交《まじ》って、トンカチリと楊弓《ようきゅう》聞え、諸白《もろはく》を燗《かん》する家《や》ごとの煙、両側の廂《ひさし》を籠《こ》めて、処柄《ところがら》とて春霞《はるがすみ》、神風に靉靆《たなび》く風情、灯《ひ》の影も深く、浅く、奥に、表に、千鳥がけに、ちらちらちらちら、吸殻も三ツ四ツ、地《つち》に溢《こぼ》れて真赤《まっか》な夜道を、人脚|繁《しげ》き賑《にぎや》かさ。
 花の中なる枯木《こぼく》と観じて、独り寂寞《じゃくまく》として茶を煮る媼《おうな》、特にこの店に立寄る者は、伊勢平氏の後胤《こういん》か、北畠《きたばたけ》殿の落武者か、お杉お玉の親類の筈《はず》を、思いもかけぬ上客《じょうかく》一|人《にん》、引手夥多《ひくてあまた》の彼処《かしこ》を抜けて、目の寄る前途《さき》へ行《ゆ》き抜けもせず、立寄ってくれたので、国主《こくしゅ》に見出《みいだ》されたほど、はじめ大喜びであったのが、灯《あかり》が消え、犬が吠《ほ》え、こうまた寒い風を、欠伸《あくび》で吸うようになっても、まだ出掛けそうな様子も見えぬので。
「いかがでございます、お酌《しゃく》をいたしましょうか。」
「いや、構わんでも可《い》い、大層お邪魔をするね。」
 ともの優しい、客は年の頃二十八九、眉目秀麗《びもくしゅうれい》、瀟洒《しょうしゃ》な風采《ふうさい》、鼠《ねず》の背広に、同一《おなじ》色の濃い外套《がいとう》をひしと絡《まと》うて、茶の中折《なかおれ》を真深う、顔を粛《つつ》ましげに、脱がずにいた。もしこの冠物《かむりもの》が黒かったら、余り頬《ほお》が白くって、病人らしく見えたであろう。
 こっくりした色に配してさえ、寒さのせいか、屈託でもあるか、顔の色が好《よ》
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