くないのである。銚子《ちょうし》は二本ばかり、早くから並んでいるのに。
 赤福の餅《もち》の盆、煮染《にしめ》の皿も差置いたが、猪口《ちょく》も数を累《かさ》ねず、食べるものも、かの神路山《かみじやま》の杉箸《すぎばし》を割ったばかり。
 客は丁字形《ていじけい》に二つ並べた、奥の方の縁台に腰をかけて、掌《てのひら》で項《うなじ》を圧《おさ》えて、俯向《うつむ》いたり、腕を拱《こまぬ》いて考えたり、足を投げて横ざまに長くなったり、小さなしかも古びた茶店の、薄暗い隅なる方《かた》に、その挙動《ふるまい》も朦朧《もうろう》として、身動《みうごき》をするのが、余所目《よそめ》にはまるで寝返《ねがえり》をするようであった。
 また寝られてなろうか!
「あれ、お客様まだこっちのお銚子もまるでお手が着きませぬ。」
 と婆々は片づけにかかる気で、前の銚子を傍《かたえ》へ除《の》けようとして心付く、まだずッしりと手に応《こた》えて重い。
「お燗を直しましょうでござりますか。」
 顔を覗《のぞ》き込むがごとくに土間に立った、物腰のしとやかな、婆々は、客の胸のあたりへその白髪頭《しらがあたま》を差出したので、面《おもて》を背けるようにして、客は外《と》の方《かた》を視《なが》めると、店頭《みせさき》の釜《かま》に突込んで諸白の燗をする、大きな白丁《はくちょう》の、中が少くなったが斜めに浮いて見える、上なる天井から、むッくりと垂れて、一つ、くるりと巻いたのは、蛸《たこ》の脚、夜の色|濃《こまや》かに、寒さに凍《い》てたか、いぼが蒼《あお》い。

       二

 涼しい瞳《ひとみ》を動かしたが、中折《なかおれ》の帽の庇《ひさし》の下から透《すか》して見た趣で、
「あれをちっとばかりくれないか。」と言ってまた面《おもて》を背けた。
 深切な婆々《ばば》は、膝《ひざ》のあたりに手を組んで、客の前に屈《かが》めていた腰を伸《の》して、指《ゆびさ》された章魚《たこ》を見上げ、
「旦那様《だんなさま》、召上りますのでござりますか。」
「ああ、そして、もう酒は沢山だから、お飯《まんま》にしよう。」
「はいはい、……」
 身を起して背向《うしろむき》になったが、庖丁《ほうちょう》を取出すでもなく、縁台の彼方《あなた》の三畳ばかりの住居《すまい》へ戻って、薄い座蒲団《ざぶとん》の傍《かたわら》に、散《ちら》ばったように差置いた、煙草《たばこ》の箱と長煙管《ながぎせる》。
 片手でちょっと衣紋《えもん》を直して、さて立ちながら一服吸いつけ、
「且那え。」
「何だ。」
「もう、お無駄でござりまするからお止《よ》しなさりまし、第一あれは余り新しゅうないのでござります。それにお見受け申しました処、そうやって御酒《ごしゅ》もお食《あが》りなさりませず、滅多に箸《はし》をお着けなさりません。何ぞ御都合がおありなさりまして、私《わし》どもにお休み遊ばします。時刻《とき》が経《た》ちまするので、ただ居てはと思召《おぼしめ》して、婆々に御馳走《ごちそう》にあなた様、いろいろなものをお取り下さりますように存じます、ほほほほほ。」
 笑《わらい》とともに煙を吹き、
「いいえ、お一人のお客様には難有過《ありがたす》ぎましたほど儲《もう》かりましてございまする。大抵のお宿銭ぐらい頂戴をいたします勘定でござりますから、私《わたくし》どもにもう一室《ひとま》、別座敷でもござりますなら、お宿を差上げたい位に、はい、もし、存じまするが、旦那様。」
 婆々は框《かまち》に腰を下して、前垂《まえだれ》に煙草の箱、煙管を長く膝にしながら、今こう謂《い》われて、急に思い出したように、箸の尖《さき》を動かして、赤福の赤きを顧みず、煮染《にしめ》の皿の黒い蒲鉾《かまぼこ》を挟んだ、客と差向いに、背屈《せこご》みして、
「旦那様、決してあなた、勿体《もったい》ない、お急立《せきた》て申しますわけではないのでござりますが、もし、お宿はお極《きま》り遊ばしていらっしゃいますかい。」
 客はものいわず。
「一旦《いったん》どこぞにお宿をお取りの上に、お遊びにお出掛けなさりましたのでござりますか。」
「何、山田の停車場《ステエション》から、直ぐに、右|内宮道《ないぐうみち》とある方へ入って来たんだ。」
「それでは、当伊勢はお馴《な》れ遊ばしたもので、この辺には御親類でもおありなさりますという。――」と、婆々は客の言尻《ことばじり》について見たが、その実、土地馴れぬことは一目見ても分るのであった。
「どうして、親類どころか、定宿《じょうやど》もない、やはり田舎ものの参宮さ。」
「おや!」
 と大きく、
「それでもよく乗越しておいでなさりましたよ。この辺までいらっしゃいます前には、あの、まあ、伊勢へおいで遊ばすお方に、
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