なお客様、またどのような手落になりましても相成らぬ儀と、お伺いに罷出《まかりで》ましてござりまする。」
 番頭は一大事のごとく、固くなって、御意を得ると、夫人は何事もない風情、
「まあ、何とおっしゃる方。」
「はッ立花様。」
「立花。」
「ええ、お少《わか》いお人柄な綺麗《きれい》な方でおあんなさいまする。」
「そう。」と軽《かろ》くいって、莞爾《にっこり》して、ちょっと膝を動かして、少し火桶を前へ押して、
「ずんずんいらっしゃれば可《い》いのに、あの、お前さん、どうぞお通し下さい。」
「へい、宜《よろ》しゅうござりますか。」
 頤《おとがい》の長い顔をぼんやりと上げた、余り夫人の無雑作なのに、ちと気抜けの体《てい》で、立揚《たちあが》る膝が、がッくり、ひょろりと手をつき、苦笑《にがわらい》をして、再び、
「はッ。」

       六

 やがて入交《いりかわ》って女中が一人《いちにん》、今夜の忙しさに親類の娘が臨時手伝という、娘柄《こがら》の好《い》い、爪《つま》はずれの尋常なのが、
「御免遊ばしまし、あの、御支度はいかがでございます。」
 夫人この時は、後毛《おくれげ》のはらはらとかかった、江戸紫の襟に映る、雪のような項《うなじ》を此方《こなた》に、背向《うしろむき》に火桶《ひおけ》に凭掛《よりかか》っていたが、軽《かろ》く振向き、
「ああ、もう出来てるよ。」
「へい。」と、その意を得ない様子で、三指《みつゆび》のまま頭《つむり》を上げた。
 事もなげに、
「床なんだろう。」
「いいえ、お支度でございますが。」
「御飯かい。」
「はい。」
「そりゃお前《まい》疾《とう》に済んだよ。」と此方《こなた》も案外な風情、余《あまり》の取込《とりこみ》にもの忘れした、旅籠屋《はたごや》の混雑が、おかしそうに、莞爾《にっこり》する。
 女中はまた遊ばれると思ったか、同じく笑い、
「奥様、あの唯今《ただいま》のお客様のでございます。」
「お客だい、誰も来やしないよ、お前《まい》。」と斜めに肩ごしに見遣《みやっ》たまま打棄《うっちゃ》ったようにもののすッきり。かえす言《ことば》もなく、
「おや、おや。」と口の中《うち》、女中は極《きまり》の悪そうに顔を赤らめながら、変な顔をして座中を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》すと、誰も居ないで寂《しん》として、釜《かま》の湯がチンチン、途切れてはチンという。
 手持不沙汰《てもちぶさた》に、後退《あとじさり》にヒョイと立って、ぼんやりとして襖《ふすま》がくれ、
「御免なさいまし。」と女中、立消えの体《てい》になる。
 見送りもせず、夫人はちょいと根の高い円髷《まるまげ》の鬢《びん》に手を障《さわ》って、金蒔絵《きんまきえ》の鼈甲《べっこう》の櫛《くし》を抜くと、指環《ゆびわ》の宝玉きらりと動いて、後毛を掻撫《かいな》でた。
 廊下をばたばた、しとしとと畳ざわり。襖に半身を隠して老番頭、呆れ顔の長いのを、擡《もた》げるがごとく差出したが、急込《せきこ》んだ調子で、
「はッ。」
 夫人は蒲団《ふとん》に居直り、薄い膝に両手をちゃんと、媚《なまめか》しいが威儀正しく、
「寝ますから、もうお構いでない、お取込の処を御厄介ねえ。」
「はッはッ。」
 遠くから長廊下を駈《か》けて来た呼吸《いき》づかい、番頭は口に手を当てて打咳《うちしわぶ》き、
「ええ、混雑《ごたごた》いたしまして、どうも、その実に行届《ゆきとど》きません、平《ひら》に御勘弁下さいまして。」
「いいえ。」
「もし、あなた様、希有《けう》でござります。確かたった今、私《わたくし》が、こちらへお客人をお取次申しましてござりましてござりまするな。」
「そう、立花さんという方が見えたってお謂《い》いだったよ。どうかしたの。」
「へい、そこで女どもをもちまして、お支度の儀を伺わせました処、誰方《どなた》もお見えなさりませんそうでござりまして。」
「ああ、そう、誰もいらっしゃりやしませんよ。」
「はてな、もし。」
「何なの、お支度ッて、それじゃ、今着いた人なんですか、内に泊ってでもいて、宿帳で、私のいることを知ったというような訳ではなくッて?」
「何、もう御覧の通《とおり》、こちらは中庭を一ツ、橋懸《はしがかり》で隔てました、一室《ひとま》別段のお座敷でござりますから、さのみ騒々しゅうもございませんが、二百余りの客でござりますで、宵の内はまるで戦争《いくさ》、帳場の傍《はた》にも囲炉裡《いろり》の際《きわ》にも我勝《われがち》で、なかなか足腰も伸びません位、野陣《のじん》見るようでござりまする。とてもどうもこの上お客の出来る次第ではござりませんので、早く大戸を閉めました。帳場はどうせ徹夜《よあかし》でござりますが、十二時という時、腕車
前へ 次へ
全12ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング