と》でござりましょ。あれこれとおっしゃっても、まず古市では三由屋で、その上に講元《こうもと》のことでござりまするから、お客は上中下とも一杯でござります。」
「それは構わん。」といって客は細く組違えていた膝を割って、二ツばかり靴の爪尖《つまさき》を踏んで居直った。
「まあ、何ということでござります、それでは気を揉《も》むではなかったに、先へ誰方《どなた》ぞお美しいのがいらしって、三由屋でお待受けなのでござりますね。わざと迷児《まいご》になんぞおなり遊ばして、可《よ》うござります、翌日《あす》は暗い内から婆々が店頭《みせさき》に張番をして、芸妓《げいこ》さんとでも腕車《くるま》で通って御覧じゃい、お望《のぞみ》の蛸の足を放りつけて上げますに。」と煙草《きせる》を下へ、手で掬《すく》って、土間から戸外《そと》へ、……や……ちょっと投げた。トタンに相の山から戻腕車《もどりぐるま》、店さきを通りかかって、軒にはたはたと鳴る旗に、フト楫《かじ》を持ったまま仰いで留《とま》る。
「車夫《くるまや》。」
「はい。」と媚《なまめか》しい声、婦人《おんな》が、看板をつけたのであった、古市組合。

       五

「はッ。」
 古市《ふるいち》に名代《なだい》の旅店、三由屋《みよしや》の老番頭、次の室《ま》の敷居際にぴたりと手をつき、
「はッ申上げまするでございまする。」
 上段の十畳、一点の汚《よごれ》もない、月夜のような青畳、紫縮緬《むらさきちりめん》ふッくりとある蒲団《ふとん》に、あたかもその雲に乗ったるがごとく、菫《すみれ》の中から抜けたような、装《よそおい》を凝《こら》した貴夫人一人。さも旅疲《たびづかれ》の状《さま》見えて、鼠地《ねずみじ》の縮緬に、麻の葉|鹿《か》の子の下着の端、媚《なまめ》かしきまで膝《ひざ》を斜《ななめ》に、三枚襲《さんまいがさね》で着痩《きや》せのした、撫肩《なでがた》の右を落して、前なる桐火桶《きりひおけ》の縁に、引《ひき》つけた火箸《ひばし》に手をかけ、片手を細《ほっそ》りと懐にした姿。衣紋《えもん》の正しく、顔の気高きに似ず、見好《みよ》げに過ぎて婀娜《あだ》めくばかり。眉の鮮かさ、色の白さに、美しき血あり、清き肌ある女性《にょしょう》とこそ見ゆれ、もしその黒髪の柳濃く、生際《はえぎわ》の颯《さっ》と霞《かす》んだばかりであったら、画《えが》ける幻と誤るであろう。袖口《そでくち》、八口《やつくち》、裳《もすそ》を溢《こぼ》れて、ちらちらと燃ゆる友染《ゆうぜん》の花の紅《くれない》にも、絶えず、一叢《ひとむら》の薄雲がかかって、淑《つつ》ましげに、その美を擁護するかのごとくである。
 岐阜《ぎふ》県××町、――里見稲子《さとみいなこ》、二十七、と宿帳に控えたが、あえて誌《しる》すまでもない、岐阜の病院の里見といえば、家族雇人《やからうから》一同神のごとくに崇拝する、かつて当家の主人《あるじ》が、難病を治した名医、且つ近頃三由屋が、株式で伊勢の津《つ》に設立した、銀行の株主であるから。
 晩景、留守を預るこの老番頭にあてて、津に出張中の主人《あるじ》から、里見氏の令夫人参宮あり、丁寧に宿を参らすべき由、電信があったので、いかに多数の客があっても、必ず、一室《ひとま》を明けておく、内証の珍客のために控えの席へ迎え入れて、滞《とどこお》りなく既に夕餉《ゆうげ》を進めた。
 されば夫人が座の傍《かたわら》、肩掛、頭巾《ずきん》などを引掛《ひっか》けた、衣桁《いこう》の際《きわ》には、萌黄《もえぎ》の緞子《どんす》の夏衾《なつぶすま》、高く、柔かに敷設けて、総附《ふさつき》の塗枕《ぬりまくら》、枕頭《まくらもと》には蒔絵《まきえ》ものの煙草盆《たばこぼん》、鼻紙台も差置いた、上に香炉を飾って、呼鈴《よびりん》まで行届《ゆきとど》き、次の間の片隅には棚を飾って、略式ながら、薄茶の道具一通。火鉢には釜《かま》の声、遥《はるか》に神路山の松に通い、五十鈴川の流《ながれ》に応じて、初夜も早や過ぎたる折から、ここの行燈《あんどう》とかしこのランプと、ただもう取交《とりか》えるばかりの処。
「ええ、奥方様、あなた様にお客にござりまして。」
 優しい声で、
「私に、」と品よく応じた。
「はッ、あなた様にお客来《きゃくらい》にござりまする。」
 夫人はしとやかに、
「誰方《どなた》だね、お名札《なふだ》は。」
「その儀にござりまする。お名札をと申しますと、生憎《あいにく》所持せぬ、とかようにおっしゃいまする、もっともな、あなた様お着《つき》が晩《おそ》うござりましたで、かれこれ十二時。もう遅うござりますに因って、御一人旅の事ではありまするし、さようなお方は手前どもにおいでがないと申して断りましょうかとも存じましたなれども、たいせつ
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