を投げて頂いて、手ン手に長棹《ながざお》の尖《さき》へ網を張りましたので、宙で受け留めまするが、秋口|蜻蛉《とんぼ》の飛びますようでござります。橋の袂《たもと》には、女房達が、ずらりと大地に並びまして、一文二文に両換《りょうがえ》をいたします。さあ、この橋が宇治橋と申しまして、内宮様《ないぐうさま》へ入口でござりまする。川は御存じの五十鈴川《いすずがわ》、山は神路山《かみじやま》。その姿の優しいこと、気高いこと、尊いこと、清いこと、この水に向うて立ちますと、人膚《ひとはだ》が背後《うしろ》から皮を透《とお》して透いて見えます位、急にも流れず、淀《よど》みもしませず、浪《なみ》の立つ、瀬というものもござりませぬから、色も、蒼《あお》くも見えず、白くも見えず、緑の淵《ふち》にもなりませず、一様に、真《ほん》の水色というのでござりましょ。
 渡りますと、それから三千年の杉の森、神代《かみよ》から昼も薄暗い中を、ちらちらと流れまする五十鈴川を真中《まんなか》に、神路山が裹《つつ》みまして、いつも静《しずか》に、神風がここから吹きます、ここに白木造《しろきづくり》の尊いお宮がござりまする。」

       四

「内宮《ないぐう》でいらっしゃいます。」
 婆々《ばば》は掌《て》を挙げて白髪の額に頂き、
「何事のおわしますかは知らねども、忝《かたじけな》さに涙こぼるる、自然《ひとりで》に頭《つむり》が下りまする。お帰りには二見《ふたみ》ヶ浦、これは申上げるまでもござりませぬ、五十鈴川の末、向うの岸、こっちの岸、枝の垂れた根上り松に纜《もや》いまして、そこへ参る船もござります。船頭たちがなぜ素袍《すおう》を着て、立烏帽子《たてえぼし》を被《かぶ》っていないと思うような、尊い川もござりまする、女の曳《ひ》きます俥《くるま》もござります、ちょうど明日は旧の元日。初日の出、」
 いいかけて急に膝《ひざ》を。
「おお、そういえば旦那様《だんなさま》、お宿はどうなさります思召《おぼしめし》。
 成程、おっしゃりました名の通《とおり》、あなた相の山までいらっしゃいましたが、この前方《さき》へおいでなさりましても、佳《い》い宿はござりません。後方《あと》の古市《ふるいち》でござりませんと、旦那様方がお泊りになりまする旅籠はござりませんが、何にいたしました処で、もし、ここのことでござりまする、必ず必ずお急《せ》き立て申しますではないのでござりまするけれども、お早く遊ばしませぬと、お泊《とまり》が難しゅうござりますので。
 はい、いつもまあこうやって、大神宮様のお庇《かげ》で、繁昌《はんじょう》をいたしまするが、旧の大晦日《おおみそか》と申しますと、諸国の講中《こうじゅう》、道者《どうじゃ》、行者《ぎょうじゃ》の衆《しゅ》、京、大阪は申すに及びませぬ、夜一夜、古市でお籠《こもり》をいたしまして、元朝、宇治橋を渡りまして、貴客《あなた》、五十鈴川で嗽手水《うがいちょうず》、神路山を右に見て、杉の樹立《こだち》の中を出て、御廟《おたまや》の前でほのぼのと白《しら》みますという、それから二見ヶ浦へ初日の出を拝みに廻られまする、大層な人数。
 旦那様お通りの時分には、玉ころがしの店、女郎屋の門《かど》などは軒並《のきなみ》戸が開《あ》いておりましてございましょうけれども、旅籠屋は大抵戸を閉めておりましたことと存じまする。
 どの家も一杯で、客が受け切れませんのでござります。」
 婆々はひしひし、大手の木戸に責め寄せたが、
「しかし貴客《あなた》、三人、五人こぼれますのは、旅籠《はたごや》でも承知のこと、相宿でも間に合いませぬから、廊下のはずれの囲《かこい》だの、数寄《すき》な四阿《あずまや》だの、主人《あるじ》の住居《すまい》などで受けるでござりますよ。」
 と搦手《からめて》を明けて落ちよというなり。
 けれども何の張合もなかった、客は別に騒ぎもせず、さればって聞棄《ききず》てにもせず、何《なん》の機会《きっかけ》もないのに、小形の銀の懐中時計をぱちりと開けて見て、無雑作に突込《つッこ》んで、
「お婆さん、勘定だ。」
「はい、あなた、もし御飯《おまんま》はいかがでござります。」
 客は仰向《あおむ》いて、新《あらた》に婆々の顔を見て莞爾《かんじ》とした。
「いや、実は余り欲しくない。」
「まあ、ソレ御覧《ごろう》じまし、それだのに、いかなこッても、酢蛸《すだこ》を食《あが》りたいなぞとおっしゃって、夜遊びをなすって、とんだ若様でござります。どうして婆々が家の一膳飯《いちぜんめし》がお口に合いますものでござります。ほほほほ。」
「時に、三由屋《みよしや》という旅籠はあるね。」
「ええ、古市一番の旧家で、第一等の宿屋でござります。それでも、今夜あたりは大層なお客《ひ
前へ 次へ
全12ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング