盟《ちか》って申しませんです。」
この人の平生はかく盟うのに適していた。
「は、申します、先生、貴下《あなた》だけなら申します。」
「言うて下さるか、それは難有《ありがた》い、むむ、さあ、承りましょう。」
「どうぞ、その、その前《さき》に先生、どこへか、人の居ない、谷底か、山の中か、島へでも、巌穴《いわあな》へでも、お連れなすって下さいまし。もう、貴下《あなた》にばかりも精一杯、誰にも見せられます身体《からだ》ではないんです。」
袖を僅《わずか》に濡れたる顔、夢見るように恍惚《うっとり》と、朝ぼらけなる酔芙蓉《すいふよう》、色をさました涙の雨も、露に宿ってあわれである。
「人の来ない処といって、お待ちなさい、船ででもどちらへか、」
と心当りがないでもなかった。沖の方へ見え初《そ》めて、小児《こども》の船が靄《もや》から出て来た。
夫人は時にあらためて、世に出たような目《まな》ざししたが、苫船《とまぶね》を一目見ると、目《ま》ぶちへ、颯《さっ》と――蒼《あお》ざめて、悚然《ぞっ》としたらしく肩をすくめた、黒髪おもげに、沖の方《かた》。
「もし、」
「は、」
「参られますなら、あすこへでも。」
いかにも人は籠《こも》らぬらしい、物凄《ものすさま》じき対岸《むこう》の崖、炎を宿して冥々《めいめい》たり。
「あんな、あんなその、地獄の火が燃えておりますような、あの中へ、」
「結構なんでございます、」と、また打悄《うちしお》れて面《おもて》を背ける。
よくよくの事なるべし。
「参りましょうか。靄が霽《は》れれば、ここと向い合った同一《おなじ》ような崖下でありますけれども、途中が海で切れとるですから、浜づたいに人の来る処ではありません。
御覧なさい、あの小児《こども》の船を。大丈夫|漕《こ》ぐですから、あれに乗せてもらいましょう、どうです。」
夫人は、がッくりして頷《うなず》いた、ものを言うも切なそうに太《いた》く疲労して見えたのである。
「夫人《おくさん》、それでは。」
「はい、」
と言って礼心に、寂しい笑顔して、吻《ほっ》と息。
二十六
「そんな、そんな貴女《あなた》、詰《つま》らん、怪《け》しからん事があるべき次第《わけ》のものではないです。汚《けが》れた身体《からだ》だの、人に顔は合わされんのとお言いなさるのはその事ですか。ははははは、いや、しかし飛んだ目にお逢《あ》いでした。ちっとも御心配はないですよ。まあ、その足をお拭《ふ》きなさい。突然こんな処へ着けたですから、船を離れる時、酷《ひど》くお濡れなすったようだ。」
廉平は砥《と》に似て蒼《あお》き条《すじ》のある滑《なめら》かな一座の岩の上に、海に面して見すぼらしく踞《しゃが》んだ、身にただ襯衣《しゃつ》を纏《まと》えるのみ。
船の中でも人目を厭《いと》って、紺がすりのその単衣《ひとえ》で、肩から深く包んでいる。浦子の蹴出《けだ》しは海の色、巌端《いわばな》に蒼澄《あおず》みて、白脛《しらはぎ》も水に透くよう、倒れた風情に休らえる。
二人は靄《もや》の薄模様。
「構わんですから、私の衣服《きもの》でお拭きなさい。
何、寒くはないです、寒いどころではないですが、貴女、裾《すそ》が濡れましたで、気味が悪いでありましょう。」
「いえ、もう潮に濡れて気味が悪いなぞと、申されます身体《からだ》ではありません。」と、投げたように岩の上。
「まだ、おっしゃる!」
「ははは、」と廉平は笑い消したが、自分にも疑いの未《いま》だ解けぬ、蘆《あし》の中なる幻影《まぼろし》を、この際なれば気《け》もない風で、
「夢の中を怪しいものに誘い出されて、苫船《とまぶね》の中で、お身体を……なんという、そんな、そんな事がありますものかな。」
「それでも私、」
と、かかる中にも夫人は顔を赧《あか》らめた。
「覚えがあるのでございますもの。貴下《あなた》が気をつけて下すって、あの苫船の中で漸々《ようよう》自分の身体になりました時も、そうでした、……まあ、お恥かしい。」
といいかけて差俯向《さしうつむ》く、額に乱れた前髪は、歯にも噛《か》むべく怨《うら》めしそう。
「ですが、ですが、それは心の迷いです。昨日《きのう》あたりからどうかなさって、お身体《からだ》の工合が悪いのでしょう。西洋なぞにも、」
言《ことば》の下に聞き咎《とが》め、
「西洋とおっしゃれば、貴下《あなた》は西洋の婦人《おんな》の方が、私のつかまっておりました船の中を覗《のぞ》いて見て、仔細《しさい》がありそうに招いたのを、丘の上から御覧なすって、それでお心着きになりましたって。
その時も、苫を破って獣が飛んで行ったとおっしゃるではございませんか。
ですから私は、」
と早や力なげに、なよなよとするのであった。
「いや、」
と当《あて》なしに大きく言った、が、いやな事はちっともない。どうして発見《みいだ》したかを怪しまれて、湾の口を横ぎって、穉児《おさなご》に船を漕《こ》がせつつ、自分が語ったは、まずその通《とおり》。
「ですけれども、何ですな。」
「いいえ」
今度は夫人から遮って、
「もう昨日《きのう》、二つ目の浜へ参りました途中から、それはそれは貴下《あなた》、忌《いま》わしい恐ろしい事ばかりで、私は何だか約束ごとのように存じます。
三十という年に近いこの年になりますまで、少《わか》い折から何一つ苦労ということは知りませんで、悲しい事も、辛い事もついぞ覚えはありません、まだ実家には両親も達者で居ます身の上ですもの。
腹の立った事さえござんせん、余《あんま》り果報な身体《からだ》ですから、盈《みつ》れば虧《か》くるとか申します通り、こんな恐しい目に逢いましたので。唯今《ただいま》ここへ船を漕いでくれました小児《こども》たちが、年こそ違いますけれども、そっくり大きいのが銑さん、小さい方が賢之助に肖《に》ておりましたのも、皆《みんな》私の命数で、何かの因縁なんでございましょうから。」
いうことの極めて確かに、心狂える様子もないだけ、廉平は一層《ひとしお》慰めかねる。
二十七
夫人はわずかに語るうちも、あまたたび息を継ぎ、
「小児《こども》と申しても継《まま》しい中で、それでも姉弟《きょうだい》とも、真《ほん》の児《こ》とも、賢之助は可愛くッてなりません。ただ心にかかりますのはそれだけですが、それも長年、貴下《あなた》が御丹精下さいましたお庇《かげ》で、高等学校へ入学も出来ましたのでございますから、きっと私の思いでも、一人前になりましょう。
もう私は、こんな身体《からだ》、見るのも厭《いや》でなりません。ぶつぶつ切って刻んでも棄《す》てたいように思うんですもの、ちっとも残り惜《おし》いことはないのですが、慾《よく》には、この上の願いには、これが、何か、義理とか意気とか申すので死ぬんなら、本望でございますのに、活《い》きながら畜生道とはどうした因果なんでございましょうねえ。」
と、心もやや落着いたか、先のようには泣きもせで、濁りも去った涼しい目に、ほろりとしたのを、熟《じっ》と見て、廉平|堪《たま》りかねた面色《おももち》して、唇をわななかし、小鼻に柔和な皺《しわ》を刻んで、深く両手を拱《こまぬ》いたが、噫《ああ》、我かつて誓うらく、いかなる時にのぞまんとも、我《わが》心、我が姿、我が相好、必ず一体の地蔵のごとくしかくあるべき也《なり》と、そもさんか菩薩《ぼさつ》。
「夫人《おくさん》、どうしても、貴女《あなた》、怪《あやし》い獣に……という、疑《うたがい》は解けんですか。」
「はい、お恥かしゅう存じます。」と手を支《つ》いて、誰《たれ》にか詫《わ》び入る、そのいじらしさ。
眼《まなこ》を閉じたが、しばらくして、
「恐るべきです、恐るべきだ。夢現《ゆめうつつ》の貴女《あなた》には、悪獣《あくじゅう》の体《たい》に見えましたでありましょう。私の心は獣《けだもの》でした。夫人《おくさん》、懺悔《ざんげ》をします。廉平が白状するです。貴女に恥辱を被らしたものは、四脚《よつあし》の獣ではない、獣のような人間じゃ。
私です。
鳥山廉平一生の迷いじゃ、許して下さい。」と、その襯衣《しゃつ》ばかりの頸《うなじ》を垂れた。
夫人はハッと顔を上げて、手をつきざまに右視左瞻《とみこうみ》つつ、背《せな》に乱れた千筋《ちすじ》の黒髪、解くべき術《すべ》もないのであった。
「許して下さい。お宅へ参って、朝夕、貴女《あなた》に接したのが因果です。賢君に対して殆《ほと》んど献身的に尽したのは、やがて、これ、貴女に生命を捧げていたのです。
未《いま》だ四十という年にもならんで、御存じの通り、私は、色気もなく、慾気もなく、見得もなく、およそ出世間的に超然として、何か、未来の霊光を認めておるような男であったのを御存じでしょう。
なかなか以《もっ》て、未来の霊光ではなく、貴女のその美しいお姿じゃった。
けれども、到底尋常では望みのかなわぬことを悟ったですから、こんど当地の別荘をおなごりに、貴女のお傍《そば》を離れるに就いて、非常な手段を用いたですよ。
五年勤労に酬《むく》いるのに、何か記念の品をと望まれて、悟《さとり》も徳もなくていながら、ただ仏体を建てるのが、おもしろい、工合のいい感じがするで、石地蔵を願いました。
今の世に、さような変ったことを言い、かわったことを望むものが、何……をするとお思いなさる。
廉平は魔法づかいじゃ。」
と石上に跣坐《ふざ》したその容貌《ようぼう》、その風采《ふうさい》、或はしかあるべく見えるのであった。
夫人は、ただもの言わんとして唇のわななくのみ。
「貴女《あなた》も、昨日《きのう》、その地蔵をあつらえにおいでの途中から、怪しいものに憑《つ》かれたとおっしゃった。……
すべて、それが魔法なので、貴女を魅して、夢現《ゆめうつつ》の境《きょう》に乗じて、その妄執《もうしゅう》を晴しました。
けれども余りに痛《いたわ》しい。ひとえに獣にとお思いなすって、玉のごときそのお身体《からだ》を、砕いて切っても棄《す》てたいような御容子《ごようす》が、余りお可哀相《かわいそう》で見ておられん。
夫人《おくさん》、真の獣よりまだこの廉平と、思《おぼ》し召す方が、いくらかお心が済むですか。」
夫人はせいせい息を切った。
二十八
「どうですか、余り推《おし》つけがましい申分《もうしぶん》ではありますが、心はおなじ畜生でも、いくらか人間の顔に似た、口を利く、手足のある、廉平の方が可《い》いですか。」
口へ出すとよりは声をのんで、
「貴下《あなた》、」
「…………」
「貴下、」
「…………」
「貴下、ほんとうでございますか。」
「勿論、懺悔《ざんげ》したのじゃで。」
と、眉を開いてきっぱりという。
膝《ひざ》でじりりとすり寄って、
「ええ、嬉しい。貴下、よくおっしゃって下さいました。」
としっかと膝に手をかけて、わッとまた泣きしずむ。廉平は我ながら、訝《あや》しいまで胸がせまった。
「私と言われて、お喜びになりますほど、それほどの思《おもい》をなさったですか。」
「いいえ、もう、何ともたとえようはござんせん。死んでも死骸《しがい》が残ります、その獣の爪《つめ》のあと舌のあとのあります、毛だらけな膚《はだ》が残るのですもの。焼きましても狐《きつね》狸《たぬき》の悪い臭《におい》がしましょうかと、心残りがしましたのに、貴下《あなた》、よく、思い切ってそうおっしゃって下さいました。快よく死なれます、死なれるんでございますよ。」
「はてさて、」
「………………」
「じゃ、やっぱり、死ぬのを思い止まっちゃ下さらん。」
顔を見合わせ、打頷《うちうなず》き、
「むむ、成程、」
と腕を解いて、廉平は従容《しょうよう》として居直った。
「成程、そうじゃ。貴女《あなた》ほどのお方が、かかる恥辱をお受けなさって、夢にして、ながらえておいでなさ
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