る筈《はず》ではないのじゃった。
懺悔をいたせば、悪い夢とあきらめて、思い直して頂けることもあろうかと思ったですが、いかにも取返しのつかんお身体《からだ》にしたのじゃった、恥入ります。
夫人《おくさん》、貴女ばかりは殺しはせんのじゃ。」
「いいえ、飛んだことをおっしゃいます。殿方には何でもないのでございますもの、そして懺悔には罪が消えますと申します、お怨《うら》みには思いません。」
「許して下さるか。」
「女の口から行《ゆ》き過ぎではございますが、」
「許して下さる。」
「はい、」
「それではどうぞ、思い直して、」
「私はもう、」
と衝《つ》と前褄《まえづま》を引寄せる。岩の下を掻《か》いくぐって、下の根のうつろを打って、絶えず、丁々《トントン》と鼓の音の響いたのが、潮や満ち来る、どッと烈《はげ》しく、ざぶり砕けた波がしら、白滝《しらたき》を倒《さかしま》に、颯《さっ》とばかり雪を崩して、浦子の肩から、頭《つむり》から。
「あ、」と不意に呼吸《いき》を引いた。濡れしおたれた黒髪に、玉のつらなる雫《しずく》をかくれば、南無三《なむさん》浪に攫《さら》わるる、と背《せな》を抱くのに身を恁《もた》せて、観念した顔《かんばせ》の、気高きまでに莞爾《にっこ》として、
「ああ、こうやって一思いに。」
「夫人《おくさん》、おくれはせんですよ。」と、顔につららを注いで言った。打返しがまたざっと。
「※[#「さんずい+散」、261−9]《しぶき》がかかる、※[#「さんずい+散」、261−9]がかかる、危いぞ。」
と、空から高く呼《とば》わる声。
靄《もや》が分れて、海面《うなづら》に兀《こつ》として聳《そび》え立った、巌《いわ》つづきの見上ぐる上。草蒸す頂に人ありて、目の下に声を懸けた、樵夫《きこり》と覚しき一個《ひとり》の親仁《おやじ》。面《おもて》長く髪の白きが、草色の針目衣《はりめぎぬ》に、朽葉色《くちばいろ》の裁着《たッつけ》穿《は》いて、草鞋《わらんじ》を爪反《つまぞ》りや、巌端《いわばな》にちょこなんと平胡坐《ひらあぐら》かいてぞいたりける。
その岩の面《おも》にひたとあてて、両手でごしごし一|挺《ちょう》の、きらめく刃物を悠々と磨《と》いでいたり。
磨ぎつつ、覗《のぞ》くように瞰下《みおろ》して、
「上へ来さっしゃい、上へ来さっしゃい、浪に引かれると危いわ。」
という。浪は水晶の柱のごとく、倒《さかしま》にほとばしって、今つッ立った廉平の頭上を飛んで、空ざまに攀《よ》ずること十丈、親仁の手許の磨ぎ汁を一洗滌《ひとあらい》、白き牡丹《ぼたん》の散るごとく、巌角《いわかど》に飜って、海面《うなづら》へざっと引く。
「おじご、何を、何をしてござるのか。」と、廉平はわざと落着いて、下からまず声を送った。
「石鑿《いしのみ》を研ぐよ。二つ目の浜の石屋に頼まれての、今度建立さっしゃるという、地蔵様の石を削るわ。」
「や、親仁御《おじご》がな。」
「おお、此方衆《こなたしゅ》はその註文のぬしじゃろ。そうかの。はて、道理こそ、婆々《ばば》どもが附き纏《まと》うぞ。」
婆々と云うよ、生死《しょうし》を知らぬ夫人の耳に、鋭くその鑿をもって抉《えぐ》るがごとく響いたので、
「もし、」と両膝をついて伸び上った。
「婆《ばば》とお云いなさいますのは。」
「それ、銀目と、金目と、赤い目の奴等《やつら》よ。主達《ぬしたち》が功徳での、地蔵様が建ったが最後じゃ。魔物め、居処《いどこ》がなくなるじゃで、さまざまに祟《たた》りおって、命まで取ろうとするわ。女子衆《おなごしゅ》、心配さっしゃんな、身体《からだ》は清いぞ。」
とて、鑿《のみ》をこつこつ。
「何様それじゃ、昨日《きのう》から、時々黒雲の湧《わ》くように、我等の身体を包みました。婆というは、何ものでござるじゃろう。」と、廉平は揖《ゆう》しながら、手を翳《かざ》して仰いで言った。
皺手《しわで》に呼吸《いき》をハッとかけ、斜めに丁《ちょう》と鑿を押えて、目一杯に海を望み、
「三千世界じゃ、何でも居ようさ。」
「どこに、あの、どこに居ますのでございますえ。」
「それそれそこに、それ、主たちの廻りによ。」
「あれえ、」
「およそ其奴等《そいつら》がなす業じゃ。夜一夜踊りおって[#「踊りおって」は底本では「踊りおつて」]騒々しいわ、畜生ども、」
とハタと見るや、うしろの山に影大きく、眼《まなこ》の光|爛々《らんらん》として、知るこれ天宮の一将星。
「動くな!」
と喝《かっ》する下に、どぶり、どぶり、どぶり、と浪よ、浪よ、浪よ渦《うずま》くよ。
同時に、衝《つ》とその片手を挙げた、掌《たなごころ》の宝刀、稲妻の走るがごとく、射て海に入《い》るぞと見えし。
矢よりも疾《はや》く漕寄《こぎよ》せた、同じ童《わらべ》が艪《ろ》を押して、より幼き他の児《ちご》と、親船に寝た以前《さき》の船頭、三体ともに船に在《あ》り。
斜めに高く底見ゆるまで、傾いた舷《ふなべり》から、二|人《にん》半身を乗り出《いだ》して、うつむけに海を覗《のぞ》くと思うと、鉄《くろがね》の腕《かいな》、蕨《わらび》の手、二条の柄がすっくと空、穂尖《ほさき》を短《みじか》に、一斉に三叉《みつまた》の戟《ほこ》を構えた瞬間、畳およそ百余畳、海一面に鮮血《からくれない》。
見よ、南海に巨人あり、富士山をその裾に、大島を枕にして、斜めにかかる微妙の姿。青嵐《あおあらし》する波の彼方《かなた》に、荘厳《そうごん》なること仏のごとく、端麗なること美人に似たり。
怪しきものの血潮は消えて、音するばかり旭《あさひ》の影。波を渡るか、宙を行《ゆ》くか、白き鵞鳥《がちょう》の片翼《かたつばさ》、朝風に傾く帆かげや、白衣《びゃくえ》、水紅色《ときいろ》、水浅葱《みずあさぎ》、ちらちらと波に漏れて、夫人と廉平が彳《たたず》める、岩山の根の巌《いわ》に近く、忘るるばかりに漕ぐ蒼空《あおぞら》。魚《うお》あり、一尾|舷《ふなばた》に飛んで、鱗《うろこ》の色、あたかも雪。
[#ここから2字下げ]
==篇中の妖婆《ようば》の言葉(がぎぐげご)は凡《すべ》て、半濁音にてお読み取り下されたく候==
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]明治三十八(一九〇五)年十二月
底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年10月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第九卷」岩波書店
1942(昭和17)年3月30日発行
※誤植の確認には底本の親本を参照しました。
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2006年11月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全10ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング