悪獣篇
泉鏡花
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)銑太郎《せんたろう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)花|揺《ゆら》ぐ
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》す
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)漕いで見せな/\
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一
つれの夫人がちょっと道寄りをしたので、銑太郎《せんたろう》は、取附《とッつ》きに山門の峨々《がが》と聳《そび》えた。巨刹《おおでら》の石段の前に立留まって、その出て来るのを待ち合せた。
門の柱に、毎月《まいげつ》十五十六日当山説教と貼紙《はりがみ》した、傍《かたわら》に、東京……中学校水泳部合宿所とまた記してある。透《すか》して見ると、灰色の浪を、斜めに森の間《なか》にかけたような、棟の下に、薄暗い窓の数、厳穴《いわあな》の趣して、三人五人、小さくあちこちに人の形。脱ぎ棄《す》てた、浴衣、襯衣《しゃつ》、上衣《うわぎ》など、ちらちらと渚《なぎさ》に似て、黒く深く、背後《うしろ》の山まで凹《なかくぼ》になったのは本堂であろう。輪にして段々に点《とも》した蝋《ろう》の灯が、黄色に燃えて描いたよう。
向う側は、袖垣《そでがき》、枝折戸《しおりど》、夏草の茂きが中に早咲《はやざき》の秋の花。いずれも此方《こなた》を背戸にして別荘だちが二三軒、廂《ひさし》に海原《うなばら》の緑をかけて、簾《すだれ》に沖の船を縫わせた拵《こしら》え。刎釣瓶《はねつるべ》の竹も動かず、蚊遣《かやり》の煙の靡《なび》くもなき、夏の盛《さかり》の午後四時ごろ。浜辺は煮えて賑《にぎや》かに、町は寂しい樹蔭《こかげ》の細道、たらたら坂《ざか》を下りて来た、前途《ゆくて》は石垣から折曲る、しばらくここに窪《くぼ》んだ処、ちょうどその寺の苔蒸《こけむ》した青黒い段の下、小溝《こみぞ》があって、しぼまぬ月草、紺青の空が漏れ透くかと、露もはらはらとこぼれ咲いて、藪《やぶ》は自然の寺の垣。
ちょうどそのたらたら坂を下りた、この竹藪のはずれに、草鞋《わらじ》、草履、駄菓子の箱など店に並べた、屋根は茅《かや》ぶきの、且つ破れ、且つ古びて、幾秋《いくあき》の月や映《さ》し、雨や漏りけん。入口の土間なんど、いにしえの沼の干かたまったをそのままらしい。廂は縦に、壁は横に、今も屋台は浮き沈み、危《あやう》く掘立《ほったて》の、柱々、放れ放《ばな》れに傾いているのを、渠《かれ》は何心なく見て過ぎた。連れはその店へ寄った[#「寄った」は底本では「寄つた」]のである。
「昔……昔、浦島は、小児《こども》の捉《とら》えし亀を見て、あわれと思い買い取りて、……」と、誦《すさ》むともなく口にしたのは、別荘のあたりの夕間暮れに、村の小児等《こどもら》の唱うのを聞き覚えが、折から心に移ったのである。
銑太郎は、ふと手にした巻莨《まきたばこ》に心着いて、唄をやめた。
「早附木《マッチ》を買いに入ったのかな。」
うっかりして立ったのが、小店《こみせ》の方《かた》に目を注いで、
「ああ、そうかも知れん。」と夏帽の中で、頷《うなず》いて独言《ひとりごと》。
別に心に留めもせず、何の気もなくなると、つい、うかうかと口へ出る。
「一日《あるひ》大きな亀が出て、か。もうしもうし浦島さん――」
帽を傾け、顔を上げたが、藪に並んで立ったのでは、此方《こなた》の袖に隠れるので、路《みち》を対方《むこう》へ。別荘の袖垣から、斜《ななめ》に坂の方を透かして見ると、連《つれ》の浴衣は、その、ほの暗い小店に艶《えん》なり。
「何をしているんだろう。もうしもうし浦島さん……じゃない、浦子さんだ。」
と破顔しつつ、帽のふちに手をかけて、伸び上るようにしたけれども、軒を離れそうにもせぬのであった。
「店ぐるみ総じまいにして、一箇《ひとつ》々々袋へ入れたって、もう片が附く時分じゃないか。」
と呟《つぶや》くうちに真面目《まじめ》になった、銑太郎は我ながら、
「串戯《じょうだん》じゃない、手間が取れる。どうしたんだろう、おかしいな。」
二
とは思ったが、歴々《ありあり》彼処《かしこ》に、何の異状なく彳《たたず》んだのが見えるから、憂慮《きづかう》にも及ぶまい。念のために声を懸けて呼ぼうにも、この真昼間《まっぴるま》。見える処に連《つれ》を置いて、おおいおおいも茶番らしい、殊に婦人《おんな》ではあるし、と思う。
今にも来そうで、出向く気もせず。火のない巻莨《まきたばこ》を手にしたまま、同じ処に彳んで、じっと其方《そなた》を。
何《なん》となくぼんやりして、ああ、家も、路《みち》も、寺も、竹藪《たけやぶ》を漏る蒼空《あおぞら》ながら、地《つち》の底の世にもなりはせずや、連《つれ》は浴衣の染色《そめいろ》も、浅き紫陽花《あじさい》の花になって、小溝《こみぞ》の暗《やみ》に俤《おもかげ》のみ。我はこのまま石になって、と気の遠くなった時、はっと足が出て、風が出て、婦人《おんな》は軒を離れて出た。
小走りに急いで来る、青葉の中に寄る浪のはらはらと爪尖《つまさき》白く、濃い黒髪の房《ふさ》やかな双の鬢《びんづら》、浅葱《あさぎ》の紐《ひも》に結び果てず、海水帽を絞って被《かぶ》った、豊《ゆたか》な頬《ほお》に艶《つや》やかに靡《なび》いて、色の白いが薄化粧。水色縮緬《みずいろちりめん》の蹴出《けだし》の褄《つま》、はらはら蓮《はちす》の莟《つぼみ》を捌《さば》いて、素足ながら清らかに、草履ばきの埃《ほこり》も立たず、急いで迎えた少年に、ばッたりと藪の前。
「叔母さん、」
と声をかけて、と見るとこれが音に聞えた、燃《もゆ》るような朱の唇、ものいいたさを先んじられて紅梅の花|揺《ゆら》ぐよう。黒目勝《くろめがち》の清《すず》しやかに、美しくすなおな眉の、濃きにや過ぐると煙ったのは、五日月《いつかづき》に青柳《あおやぎ》の影やや深き趣あり。浦子というは二十七。
豪商|狭島《さじま》の令室で、銑太郎には叔母に当る。
この路を去る十二三町、停車場|寄《より》の海岸に、石垣高く松を繞《めぐ》らし、廊下で繋《つな》いで三棟《みむね》に分けた、門には新築の長屋があって、手車の車夫の控える身上《しんしょう》。
裳《もすそ》を厭《いと》う砂ならば路に黄金《こがね》を敷きもせん、空色の洋服の褄を取った姿さえ、身にかなえば唐《から》めかで、羽衣着たりと持て囃《はや》すを、白襟で襲衣《かさね》の折から、羅《うすもの》に綾《あや》の帯の時、湯上りの白粉《おしろい》に扱帯《しごき》は何というやらん。この人のためならば、このあたりの浜の名も、狭島が浦と称《とな》えつびょう、リボンかけたる、笄《こうがい》したる、夏の女の多い中に、海第一と聞えた美女《たおやめ》。
帽子の裡《うち》の日の蔭に、長いまつげのせいならず、甥《おい》を見た目に冴《さえ》がなく、顔の色も薄く曇って、
「銑さん。」
とばかり云った、浴衣の胸は呼吸《いき》ぜわしい。
「どうしたんです、何を買っていらしったんです。吃驚《びっくり》するほど長かった。」
打見《うちみ》に何の仔細《しさい》はなきが、物怖《ものおじ》したらしい叔母の状《さま》を、たかだか例の毛虫だろう、と笑いながら言う顔を、情《なさけ》らしく熟《じっ》と見て、
「まあ、呑気《のんき》らしい、早附木《マッチ》を取って上げたんじゃありませんか。」
はじめて、ほッとした様子。
「頂戴! いつかの靴以来です。こうは叔母さんでなくッちゃ出来ない事です。僕もそうだろうと思ったんです。」
「そうだろうじゃありませんわ。」
「じゃ、早附木ではないんですか。」
三
「いいえ、銑さんが煙草《たばこ》を出すと、早附木《マッチ》がないから、打棄《うっちゃ》っておくと、またいつものように、煙草には思い遣《や》りがない、監督のようだなんて云うだろうと思って、気を利かして、ちょうど、あの店で、」
と身を横に、踵《かかと》を浮かして、恐《こわ》いもののように振返って、
「見附かったからね、黙って買って上げようと思って入ったんですがね、お庇《かげ》で大変な思いをしたんですよ。ああ、恐かった。」
とそのままには足も進まず、がッかりしたような風情である。
「何が、叔母さん。この日中《ひなか》に何が恐いんです。大方また毛虫でしょう、大丈夫、毛虫は追駈《おっか》けては来ませんから。」
「毛虫どころじゃアありません。」
と浦子は後《うしろ》見らるる状《さま》。声も低う、
「銑さん、よっぽどの間だったでしょう。」
「ざッと一時間……」
半分は懸直《かけね》だったのに、夫人はかえってさもありそうに、
「そうでしたかねえ、私はもっとかと思ったくらい。いつ、店を出られるだろう、と心細いッたらなかったよ。」
「なぜ、どうしたんですね、一体。」
「まあ、そろそろ歩行《ある》きましょう。何だか気草臥《きくたび》れでもしたようで、頭も脚もふらふらします。」
歩を移すのに引添うて、身体《からだ》で庇《かば》うがごとくにしつつ、
「ほんとに驚いたんですか。そういえば、顔の色もよくないようですよ。」
「そうでしょう、悚然《ぞっ》として、未《いま》だに寒気がしますもの。」
と肩を窄《すぼ》めて俯向《うつむ》いた、海水帽も前下り、頸《うなじ》白く悄《しお》れて連立つ。
少年は顔を斜めに、近々と帽の中。
「まったく色が悪い。どうも毛虫ではないようですね。」
これには答えず、やや石段の前を通った。
しばらくして、
「銑さん、」
「ええ、」
「帰途《かえり》に、またここを通るんですか。」
「通りますよ。」
「どうしても通らねば不可《いけ》ませんかねえ、どこぞ他《ほか》に路がないんでしょうか。」
「海ならあります。ここいらは叔母さん、海岸の一筋路ですから、岐路《わかれみち》といっては背後《うしろ》の山へ行《ゆ》くより他《ほか》にはないんですが、」
「困りましたねえ。」
と、つくづく云う。
「何ね、時刻に因って、汐《しお》の干ている時は、この別荘の前なんか、岩を飛んで渡られますがね、この節の月じゃどうですか、晩方干ないかも知れません。」
「船はありますか。」
「そうですね、渡船《わたしぶね》ッて別にありはしますまいけれど、頼んだら出してくれないこともないでしょう、さきへ行って聞いて見ましょう。」
「そうね。」
「何、叔母さんさえ信用するんなら、船だけ借りて、漕《こ》ぐことは僕にも漕げます。僕じゃ危険《けんのん》だというでしょう。」
「何《なん》でも可《よ》うござんすから、銑さん、貴郎《あなた》、どうにかして下さい。私はもう帰途《かえり》にあの店の前を通りたくないんです。」
とまた俯向《うつむ》いたが恐々《こわごわ》らしい。
「叔母さん、まあ、一体、何ですか。」と、余りの事に微笑《ほほえ》みながら。
四
「もう聞えやしますまいね。」
と憚《はばか》る所あるらしく、声もこの時なお低い。
「何が、どこで、叔母さん。」
「あすこまで、」
「ああ! 汚店《きたなみせ》へ、」
「大きな声をなさんなよ。」と吃驚《びっくり》したように慌《あわただ》しく、瞳《ひとみ》を据えて、密《そっ》という。
「何が聞えるもんですか。」
「じゃあね、言いますけれど、銑さん、私がね、今、早附木《マッチ》を買いに入ると、誰も居ないのよ。」
「へい?」
「下さいな、下さいなッて、そういうとね。穴が開いて、こわれごわれで、鼠の家の三階建のような、取附《とッつき》の三段の古棚の背《うしろ》のね、物置みたいな暗い中から、――藻屑《もくず》を曳《ひ》いたかと思う、汚い服装《なり》の、小さな婆《ばあ》さんがね、よぼよぼと出て来たんです。
髪の毛が真白《まっしろ》でね
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