、かれこれ八十にもなろうかというんだけれど、その割には皺《しわ》がないの、……顔に。……身体《からだ》は痩《や》せて骨ばかり、そしてね、骨が、くなくなと柔かそうに腰を曲げてさ。
天窓《あたま》でものを見るてッたように、白髪《しらが》を振って、ふッふッと息をして、脊の低いのが、そうやって、胸を折ったから、そこらを這《は》うようにして店へ来るじゃありませんか。
早附木を下さいなッて、云ったけれど聞えません。もっともね、はじめから聞えないのは覚悟だというように、顔を上げてね、人の顔を視《なが》めてさ。目で承りましょうと云うんじゃないの。
お婆さん、早附木を下さい、早附木を、といった、私の唇の動くのを、熟《じっ》と視めていたッけがね。
その顔を上げているのが大儀そうに、またがッくり俯向《うつむ》くと、白髪の中から耳の上へ、長く、干からびた腕を出したんですがね、掌《てのひら》が大きいの。
それをね、けだるそうに、ふらふらとふって、片々《かたかた》の人指《ひとさし》ゆびで、こうね、左の耳を教えるでしょう。
聞えないと云うのかね、そんなら可《よ》うござんす。私は何だか一目見ると、厭《いや》な心持がしたんですからね、買わずと可《い》いから、そのまま店を出ようと思うと、またそう行《ゆ》かなくなりましたわ。
弱るじゃありませんか、婆さんがね、けだるそうに腰を伸ばして、耳を、私の顔の傍《そば》へ横向けに差しつけたんです。
ぷんと臭《にお》ったの。何とも言えない、きなッくさいような、醤油《おしたじ》の焦げるような、厭な臭《におい》よ。」
「や、そりゃ困りましたね。」と、これを聞いて少年も顰《ひそ》んだのである。
「早附木を下さい。
(はあ?)
(早附木よ、お婆さん。)
(はあ?)
はあッて云うきりなの。目を眠って、口を開けてさ、臭うでしょう。
(早附木、)ッて私は、まったくよ。銑さん、泣きたくなったの。
ただもう遁《に》げ出したくッてね、そこいら※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》すけれど、貴下《あなた》の姿も見えなかったんですもの。
はあ、長い間よ。
それでもようよう聞えたと見えてね、口をむぐむぐとさして合点《がってん》々々をしたから、また手間を取らないようにと、直ぐにね、銅貨を一つ渡してやると、しばらくして、早附木を一ダース。
そんなには要らないから、包を破いて、自分で一つだけ取って、ああ、厄落し、と出よう、とすると、しっかりこの、」
と片手を下に、袖《そで》をかさねた袂《たもと》を揺《ゆす》ったが、気味悪そうに、胸をかわして密《そっ》と払い、
「袂をつかまえたのに、引張られて動けないじゃありませんか。」
「かさねがさね、成程、はあ、それから、」
五
「私ゃ、銑さん、どうしようかと思ったんです。
何にも云わないで、ぐんぐん引張って、かぶりを掉《ふ》るから、大方、剰銭《つり》を寄越《よこ》そうというんでしょうと思って、留りますとね。
やッと安心したように手を放して、それから向う向きになって、緡《さし》から穴のあいたのを一つ一つ。
それがまたしばらくなの。
私の手を引張るようにして、掌《てのひら》へ呉《く》れました。
ひやりとしたけれど、そればかりなら可《よ》かったのに。
(御新姐様《ごしんぞさま》や)」
と浦子の声、異様に震えて聞えたので、
「ええ、その婆《ばば》が、」
「あれ、銑さん、聞えますよ。」と、一歩《ひとあし》いそがわしく、ぴったり寄添う。
「その婆が、云ったんですか。」
夫人はまた吐息をついた。
「婆《ばあ》さんがね、ああ。」
(御新姐様や、御身《おみ》ア、すいたらしい人じゃでの、安く、なかまの値で進ぜるぞい。)ッて、皺枯《しわが》れた声でそう云うとね、ぶんと頭へ響いたんです。
そして、すいたらしいッてね、私の手首を熟《じっ》と握って、真黄色《まっきいろ》な、平《ひらっ》たい、小さな顔を振上げて、じろじろと見詰めたの。
その握った手の冷たい事ッたら、まるで氷のようじゃありませんか。そして目がね、黄金目《きんめ》なんです。
光ったわ! 貴郎《あなた》。
キラキラと、その凄《すご》かった事。」
とばかりで重そうな頭《つむり》を上げて、俄《にわ》かに黒雲や起ると思う、憂慮《きづか》わしげに仰いで視《なが》めた。空ざまに目も恍惚《うっとり》、紐《ひも》を結《ゆわ》えた頤《おとがい》の震うが見えたり。
「心持でしょう。」
「いいえ、じろりと見られた時は、その目の光で私の顔が黄色になったかと思うくらいでしたよ。灯《あかり》に近いと、赤くほてるような気がするのと同一《おんなじ》に。
もう私、二条《ふたすじ》針を刺されたように、背中の両方から悚然《ぞっ》として、足もふらふらになりました。
夢中で二三|間《げん》駈《か》け出すとね、ちゃらんと音がしたので、またハッと思いましたよ。お銭《あし》を落したのが先方《さき》へ聞えやしまいかと思って。
何でも一大事のように返した剰銭《つり》なんですもの、落したのを知っては追っかけて来かねやしません。銑さん、まあ、何てこッてしょう、どうした婆さんでしょうねえ。」
されば叔母上の宣《のたま》うごとし。年紀《とし》七十《ななそじ》あまりの、髪の真白《まっしろ》な、顔の扁《ひらた》い、年紀の割に皺《しわ》の少い、色の黄な、耳の遠い、身体《からだ》の臭《にお》う、骨の軟かそうな、挙動《ふるまい》のくなくなした、なおその言《ことば》に従えば、金色《こんじき》に目の光る嫗《おうな》とより、銑太郎は他に答うる術《すべ》を知らなかった。
ただその、早附木《マッチ》一つ買い取るのに、半時ばかり経《た》った仔細《しさい》が知れて、疑《うたがい》はさらりとなくなったばかりであるから、気の毒らしい、と自分で思うほど一向な暢気《のんき》。
「早附木は? 叔母さん。」と魅せられたものの背中を一つ、トンと打つようなのを唐突《だしぬけ》に言った。
「ああ、そうでした。」
と心着くと、これを嫗に握られた、買物を持った右の手は、まだ左の袂《たもと》の下に包んだままで、撫肩《なでがた》の裄《ゆき》をなぞえに、浴衣の筋も水に濡れたかと、ひたひたとしおれて、片袖しるく、悚然《ぞっ》としたのがそのままである。大事なことを見るがごとく、密《そっ》とはずすと、銑太郎も覗《のぞ》くように目を注いだ。
「おや!」
「…………」
六
黒の唐繻子《とうじゅす》と、薄鼠《うすねずみ》に納戸がかった絹ちぢみに宝づくしの絞《しぼり》の入った、腹合せの帯を漏れた、水紅色《ときいろ》の扱帯《しごき》にのせて、美しき手は芙蓉《ふよう》の花片《はなびら》、風もさそわず無事であったが、キラリと輝いた指環《ゆびわ》の他《ほか》に、早附木《マッチ》らしいものの形も無い。
視詰《みつ》めて、夫人は、
「…………」ものも得《え》いわぬのである。
「ああ、剰銭《つり》と一所に遺失《おと》したんだ。叔母さんどの辺?」
と気早《きばや》に向き返って行《ゆ》こうとする。
「お待ちなさいよ。」
と遮って上げた手の、仔細《しさい》なく動いたのを、嬉しそうに、少年の肩にかけて、見直して呼吸《いき》をついて、
「銑さん、お止《よ》しなさいお止しなさい、気味が悪いから、ね、お止しなさい。」
とさも一生懸命。圧《おさ》えぬばかりに引留めて、
「あんなものは、今頃何に化《な》っているか分りませんよ、よう、ですから、銑さん。」
「じゃ止します、止しますがね。」
少年は余りの事に、
「ははははは、何だか妖物《ばけもの》ででもあるようだ。」と半ば呟《つぶや》いて、また笑った。
「私は妖物としか考えないの、まさか居ようとは思われないけれど。」
「妖物ですとも、妖物ですがね、そのくなくなした処や、天窓《あたま》で歩行《ある》きそうにする処から、黄色く※[#「亠/(田+久)」、200−7]《うね》った処なんぞ、何の事はない婆《ばば》の毛虫だ。毛虫の婆《ばあ》さんです。」
「厭《いや》ですことねえ。」と身ぶるいする。
「何もそんなに、気味を悪がるには当らないじゃありませんか。その婆に手を握られたのと、もしか樹の上から、」
と上を見る。藪《やぶ》は尽きて高い石垣、榎《えのき》が空にかぶさって、浴衣に薄き日の光、二人は月夜を行《ゆ》く姿。
「ぽたりと落ちて、毛虫が頸筋《くびすじ》へ入ったとすると、叔母さん、どっちが厭な心持だと思います。」
「沢山よ、銑さん、私はもう、」
「いえ、まあ、どっちが気味が悪いんですね。」
「そりゃ、だって、そうねえ、どっちがどっちとも言えませんね。」
「そら御覧なさい。」
説き得て可《よ》しと思える状《さま》して、
「叔母さんは、その婆を、妖物か何ぞのように大騒ぎを遣《や》るけれど、気味の悪い、厭な感じ。」
感じ、と声に力を入れて、
「感じというと、何だか先生の仮声《こわいろ》のようですね。」
「気楽なことをおっしゃいよ!」
「だって、そうじゃありませんか、その気味の悪い、厭な感じ、」
「でも先生は、工合《ぐあい》の可《い》いとか、妙なとか、おもしろい感じッて事は、お言いなさるけれど、気味の悪いだの、厭な感じだのッて、そんな事は、めったにお言いなさることはありません。」
「しかしですね、詰《つま》らない婆を見て、震えるほど恐《こわ》がった、叔母さんの風《ふう》ッたら……工合の可《い》い、妙な、おもしろい感じがする、と言ったら、叔母さんは怒るでしょう。」
「当然《あたりまえ》ですわ、貴郎《あなた》。」
「だからこの場合ですもの。やっぱり厭な感じだ。その気味の悪い感じというのが、毛虫とおなじぐらいだと思ったらどうです。別に不思議なことは無いじゃありませんか。毛虫は気味が悪い、けれども怪《あやし》いものでも何でもない。」
「そう言えばそうですけれど、だって婆さんの、その目が、ねえ。」
「毛虫にだって、睨《にら》まれて御覧なさい。」
「もじゃもじゃと白髪《しらが》が、貴郎。」
「毛虫というくらいです、もじゃもじゃどころなもんですか、沢山毛がある。」
「まあ、貴下《あなた》の言うことは、蝸牛《でんでんむし》の狂言のようだよ。」と寂しく笑ったが、
「あれ、」
寺でカンカンと鉦《かね》を鳴らした。
「ああ、この路の長かったこと。」
七
釣棹《つりざお》を、ト肩にかけた、処士あり。年紀《とし》のころ三十四五。五分刈《ごぶがり》のなだらかなるが、小鬢《こびん》さきへ少し兀《は》げた、額の広い、目のやさしい、眉の太い、引緊《ひきしま》った口の、やや大きいのも凜々《りり》しいが、頬肉《ほおじし》が厚く、小鼻に笑《え》ましげな皺《しわ》深く、下頤《したあご》から耳の根へ、べたりと髯《ひげ》のあとの黒いのも柔和である。白地に藍《あい》の縦縞《たてじま》の、縮《ちぢみ》の襯衣《しゃつ》を着て、襟のこはぜも見えそうに、衣紋《えもん》を寛《ゆる》く紺絣《こんがすり》、二三度水へ入ったろう、色は薄く地《じ》も透いたが、糊沢山《のりだくさん》の折目高。
薩摩下駄《さつまげた》の小倉《こくら》の緒《お》、太いしっかりしたおやゆびで、蝮《まむし》を拵《こしら》えねばならぬほど、弛《ゆる》いばかりか、歪《ゆが》んだのは、水に対して石の上に、これを台にしていたのであった。
時に、釣れましたか、獲物を入れて、片手に提《ひっさ》ぐべき畚《びく》は、十八九の少年の、洋服を着たのが、代りに持って、連立って、海からそよそよと吹く風に、山へ、さらさらと、蘆《あし》の葉の青く揃って、二尺ばかり靡《なび》く方へ、岸づたいに夕日を背《せな》。峰を離れて、一刷《ひとはけ》の薄雲を出《いで》て玉のごとき、月に向って帰途《かえりみち》、ぶらりぶらりということは、この人よりぞはじまりける。
「賢君、君の山越えの企ては、大層帰りが早かったですな。」
少年は莞爾《にこ》やかに、
「それでも一抱えほど山百
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