形に切崩した、処々足がかりの段のある坂を縫って、ぐるぐると駈《か》けて下り、裾《すそ》を伝うて、衝《つ》と高く、ト一飛《ひととび》低く、草を踏み、岩を渡って、およそ十四五分時を経て、ここぞ、と思う山の根の、波に曝《さら》された岩の上。
 綱もあり、立樹もあり、大きな畚《びく》も、またその畚の口と肩ずれに、船を見れば、苫|葺《ふ》いたり。あの位高かった、丘は近く頭《かしら》に望んで、崖の青芒《あおすすき》も手に届くに、婦人《おんな》たちの姿はなかった。白帆は早や渚《なぎさ》を彼方《かなた》に、上からは平《たいら》であったが、胸より高く踞《うずく》まる、海の中なる巌《いわ》かげを、明石の浦の朝霧に島がくれ行《ゆ》く風情にして。
 かえって別なる船一|艘《そう》、ものかげに隠れていたろう。はじめてここに見出《みいだ》されたが、一つ目の浜の方《かた》へ、半町ばかり浜のなぐれに隔つる処に、箱のような小船を浮べて、九つばかりと、八つばかりの、真黒《まっくろ》な男の児《こ》。一人はヤッシと艪柄《ろづか》を取って、丸裸の小腰を据え、圧《お》すほどに突伏《つッぷ》すよう、引くほどに仰反《のけぞ》るよう、ただそこばかり海が動いて、舳《へさき》を揺り上げ、揺り下すを面白そうに。穉《おさな》い方は、両手に舷《ふなべり》に掴《つか》まりながら、これも裸の肩で躍って、だぶりだぶりだぶりだぶりと同一《おなじ》処にもう一艘、渚に纜《もや》った親船らしい、艪《ろ》を操る児の丈より高い、他の舷へ波を浴びせて、ヤッシッシ。
 いや、道草する場合でない。
 廉平は、言葉も通じず、国も違って便《たより》がないから、かわって処置せよ、と暗示されたかのごとく、その苫船《とまぶね》の中に何事かあることを悟ったので、心しながら、気は急ぎ、つかつかと毛脛《けずね》[#ルビの「けずね」は底本では「げずね」]長く藁草履《わらぞうり》で立寄った。浜に苫船はこれには限らぬから、確《たしか》に、上で見ていたのをと、頂を仰いで一度。まずその二人が前に立った、左の方の舷から、ざくりと苫を上へあげた。……
 ざらざらと藁が揺れて、広き額を差入れて、べとりと頤髯《あごひげ》一面なその柔和な口を結んで、足をやや爪立《つまだ》ったと思うと、両の肩で、吃驚《おどろき》の腹を揉《も》んで、けたたましく飛び退《の》いて、下なる網に躓《つまず》いて倒れぬばかり、きょとんとして、太い眉の顰《ひそ》んだ下に、眼《まなこ》を円《つぶら》にして四辺《あたり》を眺めた。
 これなる丘と相対して、対《むこ》うなる、海の面《おも》にむらむらと蔓《はびこ》った、鼠色の濃き雲は、彼処《かしこ》一座の山を包んで、まだ霽《は》れやらぬ朝靄《あさもや》にて、もの凄《すさま》じく空に冲《ひひ》って、焔《ほのお》の連《つらな》って燃《もゆ》るがごときは、やがて九十度を越えんずる、夏の日を海気につつんで、崖に草なき赤地《あかつち》へ、仄《ほのか》に反映するのである。
 かくて一つ目の浜は彎入《わんにゅう》する、海にも浜にもこの時、人はただ廉平と、親船を漕《こ》ぎ繞《めぐ》る長幼二人の裸児《はだかご》あるのみ。

       二十三

 得も言われぬ顔して、しばらく棒のごとく立っていた、廉平は何思いけん、足を此方《こなた》に返して、ずッと身を大きく巌《いわ》の上へ。
 それを下りて、渚《なざさ》づたい、船を弄《もてあそ》ぶ小児《こども》の前へ。
 近づいて見れば、渠等《かれら》が漕《こ》ぎ廻る親船は、その舳《じく》を波打際。朝凪《あさなぎ》の海、穏《おだや》かに、真砂《まさご》を拾うばかりなれば、纜《もやい》も結ばず漾《ただよ》わせたのに、呑気《のんき》にごろりと大の字|形《なり》、楫《かじ》を枕の邯鄲子《かんたんし》、太い眉の秀でたのと、鼻筋の通ったのが、真向《まの》けざまの寝顔である。
 傍《かたわら》の船も、穉《おさな》いものも、惟《おも》うにこの親の子なのであろう。
 廉平は、ものも言わずに駈《か》け歩行《ある》いた声をまず調えようと、打咳《うちしわぶ》いたが、えへん! と大きく、調子はずれに響いたので、襯衣《しゃつ》の袖口の弛《ゆる》んだ手で、その口許を蔽《おお》いながら、
「おい、おい。」
 寝た人には内証らしく、低調にして小児《こども》を呼んだ。
「おい、その兄さん、そっちの児《こ》。むむ、そうだ、お前達だ。上手に漕ぐな、甘《うま》いものだ、感心なもんじゃな。」
 声を掛けられると、跳上《はねあが》って、船を揺《ゆす》ること木《こ》の葉のごとし。
「あぶない、これこれ、話がある、まあ、ちょっと静まれ。
 おお、怜悧《りこう》々々、よく言うことを肯《き》くな。
 何《なん》じゃ、外じゃないがな、どうだ余り感心したについて、もうちッと上手な処が見せてもらいたいな。
 どうじゃ、ずッと漕げるか。そら、あの、そら巌のもっとさきへ、海の真中《まんなか》まで漕いで行《ゆ》けるか、どうじゃろうな。」
 寄居虫《やどかり》で釣る小鰒《こふぐ》ほどには、こんな伯父さんに馴染《なじみ》のない、人馴れぬ里の児は、目を光らすのみ、返事はしないが、年紀上《としうえ》なのが、艪《ろ》の手を止めつつ、けろりで、合点の目色《めつき》をする。
「漕げる? むむ、漕げる! 豪《えら》いな、漕いで見せな/\。伯父さんが、また褒美をやるわ。
 いや、親仁《おやじ》、何よ、お前の父《とっ》さんか、父爺《とっさん》には黙ってよ、父爺に肯《き》くと、危いとか悪戯《いたずら》をするなとか、何とか言って叱られら。そら、な、可《い》いか、黙って黙って。」
 というと、また合点《がってん》々々。よい、と圧《お》した小腕ながら艪を圧す精巧な昆倫奴《くろんぼ》の器械のよう、シッと一声飛ぶに似たり。疾《はや》い事、但《ただ》し揺れる事、中に乗った幼い方は、アハハアハハ、と笑って跳ねる。
「豪いぞ、豪いぞ。」
 というのも憚《はばか》り、たださしまねいて褒めそやした。小船は見る見る廉平の高くあげた手の指を離れて、岩がくれにやがてただ雲をこぼれた点となンぬ。
 親船は他愛がなかった。
 廉平は急ぎ足に取って返して、また丘の根の巌を越して、苫船《とまぶね》に立寄って、此方《こなた》の船舷《ふなばた》を横に伝うて、二三度、同じ処を行ったり、来たり。
 中ごろで、踞《しゃが》んで畚《びく》の陰にかくれたと思うと、また突立《つった》って、端の方から苫を撫《な》でたり、上からそっと叩きなどしたが、更にあちこちを※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》して、ぐるりと舳《へさき》の方へ廻ったと思うと、向うの舷《ふなばた》の陰になった。
 苫がばらばらと煽《あお》ったが、「ああ」と息の下に叫ぶ声。藁《わら》を分けた艶《えん》なる片袖、浅葱《あさぎ》の褄《つま》が船からこぼれて、その浴衣の染《そめ》、その扱帯《しごき》、その黒髪も、その手足も、ちぎれちぎれになったかと、砂に倒れた婦人《おんな》の姿。

       二十四

「気を静めて、夫人《おくさん》、しっかりしなければ不可《いけ》ません。落着いて、可《い》いですか。心を確《たしか》にお持ちなさいよ。
 判りましたか、私です。
 何も恥かしい事はありません、ちっとも極《きま》りの悪いことはありませんです。しっかりなさい。
 御覧なさい、誰も居ないです、ただ私一人です。鳥山たった一人、他《ほか》には誰も居《お》らんですから。」
 海の方を背《そびら》にして安からぬ状《さま》に附添った、廉平の足許に、見得もなく腰を落し、裳《もすそ》を投げて崩折《くずお》れつつ、両袖に面《おもて》を蔽《おお》うて、ひたと打泣くのは夫人であった。
「ほんとうに夫人《おくさん》、気を落着けて下さらんでは不可《いけ》ません。突然《いきなり》海へ飛込もうとなすったりなんぞして、串戯《じょうだん》ではない。ええ、夫人《おくさん》、心が確《たしか》になったですか。」
 声にばかり力を籠《こ》めて、どうしようにも先は婦人《おんな》、ひとえに目を見据えて言うのみであった。
 風そよそよと呼吸《いき》するよう、すすりなきの袂《たもと》が揺れた。浦子は涙の声の下、
「先生、」と幽《かすか》にいう。
「はあ、はあ、」
 と、纔《わず》かに便《たより》を得たらしく、我を忘れて擦り寄った。
「私《わ》、私は、もう死んでしまいたいのでございます。」
 わッとまた忍び音《ね》に、身悶《みもだ》えして突伏すのである。
「なぜですか、夫人《おくさん》、まだ、どうかしておいでなさる、ちゃんとなさらなくッては不可《いか》んですよ。」
「でも、貴下《あなた》、私は、もう……」
「はあ、どうなすった、どんなお心持なんですか。」
「先生、」
「はあ、どうですな。」
「私が、あの、海へ入って死のうといたしましたのより、貴下《あなた》は、もっとお驚きなさいました事がございましょう。」
「……………………」
 何と言おうと、黙って唾《つ》を呑《の》む。
「私が、私が、こんな処に船の中に、寝て、寝て、」
 と泣いじゃくりして、
「寝かされておりましたのに、なお吃驚《びっくり》なさいましてしょうねえ、貴下。」
「……ですが、それは、しかし……」とばかり、廉平は言うべき術《すべ》を知らなかった
「先生、」
 これぎり、声の出ない人になろうも知れず、と手に汗を握ったのが、我を呼ばれたので、力を得て、耳を傾け、顔を寄せて、
「は、」
「ここは、どこでございます。」
「ここですか、ここは、一つ目の浜を出端《ではず》れた、崖下の突端《とっぱずれ》の処ですが、」
「もう、夜があけましたのでございますか。」
「明けたですよ。明方です、もう日が当るばかりです。」
 聞くや否や、
「ええ!」とまた身を震わした。浦子はそれなり、腰を上げて立とうとして、ままならぬ身をあせって、
「恥かしい、私、恥かしいんですよ。先生、どうしましょう、人が見ます。人が来ると不可《いけ》ません、人に見られるのは厭《いや》ですから、どうぞ死なして下さいまし、死なして下さいましよ。」
「と、ともかく。ですからな、夫人《おくさん》、人が来ない内に、帰りましょう。まだ大して人通《ひとどおり》もないですから。疾《はや》く、さあ、疾く帰ろうではありませんか。お内へ行って、まず、お心をお鎮めなさい、そうなさい。」
 浦子は烈《はげ》しく頭《かぶり》を掉《ふ》った。

       二十五

 為《せ》ん術《すべ》を知らず黙っても、まだ頭《かぶり》をふるのであるから、廉平は茫然《ぼうぜん》として、ただ拳《こぶし》を握って、
「どうなさる。こうしていらしっては、それこそ、人が寄って来るか分りません。第一、捜しに出ましたのでも四人や八人ではありません。」
 言いも終らず、あしずりして、
「どうしましょう、私、どうしましょうねえ。どうぞ、どうぞ、貴下《あなた》、一思いに死なして下さいまし、恥かしくっても、死骸《しがい》になれば……」
 泣くのに半ば言消《ことき》えて、
「よ、後生ですから、」
 も曇れる声なり。
 心弱くて叶《かな》うまじ、と廉平はやや屹《きっ》としたものいいで、
「飛んだ事を! 夫人《おくさん》、廉平がここに居《お》るです。決《け》して、決《け》して、そんな間違《まちがい》はさせんですよ。」
「どうしましょうねえ、」
 はッと深く溜息《ためいき》つくのを、
「……………………」
 ただ咽喉《のど》を詰めて熟《じっ》と見つつ、思わず引き入れられて歎息した。
 廉平は太い息して、
「まあ、貴女《あなた》、夫人《おくさん》、一体どうなさった。」
「訳を、訳をいえば貴下《あなた》、黙って死なして下さいますよ。もう、もう、もう、こんな汚《けがら》わしいものは、見るのも厭《いや》におなりなさいますよ。」
「いや、厭になるか、なりませんか、黙って見殺しにしましょうか。何しろ、訳をおっしゃって下さい。夫人《おくさん》、廉平です。人にいって悪い事なら、私は
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