下の姉様は、夫人の肩の下へ手を入れて、両方の傍《わき》を抱いて起した。
浦子の身は、柔かに半ば起きて凭《もた》れかかると、そのまま庭へずり下りて、
「ござれ、洲の股の御前、」
といって、坂下の姉様、夫人の片手を。
洲の股の御前も、おなじく傍《かたわら》から夫人の片手を。
ぐい、と取って、引立《ひった》てる。右と左へ、なよやかに脇を開いて、扱帯《しごき》の端が縁を離れた。髪の根は髷《まげ》ながら、笄《こうがい》ながら、がッくりと肩に崩れて、早や五足《いつあし》ばかり、釣られ工合に、手水鉢《ちょうずばち》を、裏の垣根へ誘われ行《ゆ》く。
背後《うしろ》に残って、砂地に独り峡の婆、件《くだん》の手を腰に極《き》めて、傾《かた》がりながら、片手を前へ、斜めに一煽《ひとあお》り、ハタと煽ると、雨戸はおのずからキリキリと動いて閉《しま》った。
二人の婆に挟《さしはさ》まれ、一人《いちにん》に導かれて、薄墨の絵のように、潜門《くぐりもん》を連れ出さるる時、夫人の姿は後《うしろ》ざまに反って、肩へ顔をつけて、振返ってあとを見たが、名残惜しそうであわれであった。
時しも一面の薄霞《うすがすみ》に、処々|艶《つや》あるよう、月の影に、雨戸は寂《しん》と連《つらな》って、朝顔の葉を吹く風に、さっと乱れて、鼻紙がちらちらと、蓮歩《れんぽ》のあとのここかしこ、夫人をしとうて散々《ちりぢり》なり。
* * * * *
あと白浪《しらなみ》の寄せては返す、渚《なぎさ》長く、身はただ、黄なる雲を蹈《ふ》むかと、裳《もすそ》も空に浜辺を引かれて、どれだけ来たか、海の音のただ轟々《ごうごう》と聞ゆるあたり。
「ここじゃ、ここじゃ。」
どしりと夫人の横倒《よこたおし》。
「来たぞや、来たぞや、」
「今は早や、気随、気ままになるのじゃに。」
何処《いずこ》の果《はて》か、砂の上。ここにも船の形の鳥が寝ていた。
ぐるりと三人、三《み》つ鼎《がなえ》に夫人を巻いた、金の目と、銀の目と、紅糸《べにいと》の目の六つを、凶《あし》き星のごとくキラキラと砂《いさご》の上に輝かしたが、
「地蔵菩薩《じぞうぼさつ》祭れ、ふァふァ、」と嘲笑《あざわら》って、山の峡《かい》がハタと手拍子。
「山の峡は繁昌《はんじょう》じゃ、あはは、」と洲《す》の股《また》の御前《ごぜん》、足を挙げる。
「洲の股もめでたいな、うふふ、」
と北叟笑《ほくそえ》みつつ、坂下の嫗《おうな》は腰を捻《ひね》った。
諸声《もろごえ》に、
「ふァふァふァ、」
「うふふ、」
「あはははは。」
「坂の下祝いましょ。」
今度は洲の股の御前が手を拍《う》つ。
「地蔵菩薩祭れ。」
と山の峡が一足出る、そのあとへ臀《いしき》を捻って、
「山の峡は繁昌じゃ。」
「洲の股もめでたいな、」とすらりと出る。
拍子を取って、手を拍って、
「坂の下祝いましょ。」
据え腰で、ぐいと伸び、
「地蔵菩薩祭れ。」
「山の峡は繁昌じゃ、」
「洲の股もめでたいな、」
「坂の下祝いましょ、」
「地蔵菩薩祭れ。」
さす手ひく手の調子を合わせた、浪の調《しらべ》、松の曲。おどろおどろと月落ちて、世はただ靄《もや》となる中に、ものの影が、躍るわ、躍るわ。
二十
ここに、一つ目と二つ目の浜境《はまざかい》、浪間の巌《いわ》を裾《すそ》に浸して、路傍《みちばた》に衝《つ》と高い、一座|螺《ら》のごとき丘がある。
その頂へ、あけ方の目を血走らして、大息を吐《つ》いて彳《たたず》んだのは、狭島《さじま》に宿れる鳥山廉平。
例の縞《しま》の襯衣《しゃつ》に、その綛《かすり》の単衣《ひとえ》を着て、紺の小倉《こくら》の帯をぐるぐると巻きつけたが、じんじん端折《ばしょ》りの空脛《からずね》に、草履ばきで帽は冠《かぶ》らず。
昨日《きのう》は折目も正しかったが、露にしおれて甲斐性《かいしょう》が無さそう、高い処で投首《なげくび》して、太《いた》く草臥《くたび》れた状《さま》が見えた。恐らく驚破《すわ》といって跳ね起きて、別荘中、上を下へ騒いだ中に、襯衣を着けて一つ一つそのこはぜを掛けたくらい、落着いていたものは、この人物ばかりであろう。
それさえ、夜中から暁へ引出されたような、とり留めのないなり形《かたち》、他《ほか》の人々は思いやられる。
銑太郎、賢之助、女中の松、仲働《なかばたらき》、抱え車夫はいうまでもない。折から居合わせた賭博仲間《ぶちなかま》の漁師も四五人、別荘を引《ひっ》ぷるって、八方へ手を分けて、急に姿の見えなくなった浦子を捜しに駈《か》け廻る。今しがた路を挟んだ向う側の山の裾を、ちらちらと靄《もや》に点《とも》れて、松明《たいまつ》の火の飛んだもそれよ。廉平がこの丘へ半ば攀《よ》じ上った頃、消えたか、隠れたか、やがて見えなくなった。
もとより当《あて》のない尋ね人。どこへ、と見当はちっとも着かず、ただ足にまかせて、彼方《かなた》此方《こなた》、同じ処を四五|度《たび》も、およそ二三里の路はもう歩行《ある》いた。
不祥な言を放つものは、曰《いわ》く厠《かわや》から月に浮かれて、浪に誘われたのであろうも知れず、と即《すなわ》ち船を漕《こ》ぎ出《いだ》したのも有るほどで。
死んだは、活《い》きたは、本宅の主人へ電報を、と蜘蛛手《くもで》に座敷へ散り乱れるのを、騒ぐまい、騒ぐまい。毛色のかわった犬|一疋《いっぴき》、匂《におい》の高い総菜にも、見る目、※[#「鼻+嗅のつくり」、第4水準2−94−73]《か》ぐ鼻の狭い土地がら、俤《おもかげ》を夢に見て、山へ百合の花折りに飄然《ひょうぜん》として出かけられたかも料《はか》られぬを、狭島の夫人、夜半より、その行方《ゆくえ》が分らぬなどと、騒ぐまいぞ、各自《おのおの》。心して内分にお捜し申せと、独り押鎮めて制したこの人。
廉平とても、夫人が魚《うお》の寄るを見ようでなし、こんな丘へ、よもや、とは思ったけれども、さて、どこ、という目的《めあて》がないので、船で捜しに出たのに対して、そぞろに雲を攫《つか》むのであった。
目の下の浜には、細い木が五六本、ひょろひょろと風に揉《も》まれたままの形で、静まり返って見えたのは、時々潮が満ちて根を洗うので、梢《こずえ》はそれより育たぬならん。ちょうど引潮の海の色は、煙の中に藍《あい》を湛《たた》えて、或《あるい》は十畳、二十畳、五畳、三畳、真砂《まさご》の床に絶えては連なる、平らな岩の、天地《あめつち》の奇《く》しき手に、鉄槌《かなづち》のあとの見ゆるあり、削りかけの鑪《やすり》の目の立ったるあり。鑿《のみ》の歯形を印したる、鋸《のこぎり》の屑《くず》かと欠々《かけかけ》したる、その一つ一つに、白浪の打たで飜るとばかり見えて音のないのは、岩を飾った海松《みる》、ところ、あわび、蠣《かき》などいうものの、夜半《よわ》に吐いた気を収めず、まだほのぼのと揺《ゆら》ぐのが、渚《なぎさ》を籠《こ》めて蒸すのである。
漁家二三。――深々と苫屋《とまや》を伏せて、屋根より高く口を開けたり、家より大きく底を見せたり、ころりころりと大畚《おおびく》が五つ六つ。
二十一
さてこの丘の根に引寄せて、一|艘《そう》苫《とま》を掛けた船があった。海士《あま》も簑《みの》きる時雨かな、潮の※[#「さんずい+散」、240−3]《しぶき》は浴びながら、夜露や厭《いと》う、ともの優しく、よろけた松に小綱を控え、女男《めお》の波の姿に拡げて、すらすらと乾した網を敷寝に、舳《みよし》の口がすやすやと、見果てぬ夢の岩枕。
傍《かたわら》なる苫屋の背戸に、緑を染めた青菜の畠、結い繞《めぐ》らした蘆垣《あしがき》も、船も、岩も、ただなだらかな面平《おもたいら》に、空に躍った刎釣瓶《はねつるべ》も、靄《もや》を放れぬ黒い線《いとすじ》。些《さ》と凹凸なく瞰下《みおろ》さるる、かかる一枚の絵の中に、裳《もすそ》の端さえ、片袖《かたそで》さえ、美しき夫人の姿を、何処《いずこ》に隠すべくも見えなかった。
廉平は小さなその下界に対して、高く雲に乗ったように、円く靄に包まれた丘の上に、踏《ふみ》はずしそうに崖《がけ》の尖《さき》、五尺の地蔵の像で立ったけれども。
頭《こうべ》を垂れて嘆息した。
さればこの時の風采《ふうさい》は、悪魔の手に捕えられた、一体の善女《ぜんにょ》を救うべく、ここに天降《あまくだ》った菩薩《ぼさつ》に似ず、仙家の僕《しもべ》の誤って廬《ろ》を破って、下界に追い下《おろ》された哀れな趣。
廉平は腕を拱《こまぬ》いて悄然《しょうぜん》としたのである。時に海の上にひらめくものあり。
翼の色の、鴎《かもめ》や飛ぶと見えたのは、波に静かな白帆の片影。
帆風に散るか、露《もや》消えて、と見れば、海に露《あらわ》れた、一面|大《おおい》なる岩の端へ、船はかくれて帆の姿。
ぴたりとついて留まったが、飜然《ひらり》と此方《こなた》へ向《むき》をかえると、渚《なぎさ》に据《すわ》った丘の根と、海なるその岩との間、離座敷の二三間、中に泉水を湛《たた》えた状《さま》に、路一条《みちひとすじ》、東雲《しののめ》のあけて行《ゆ》く、蒼空《あおぞら》の透くごとく、薄絹の雲左右に分れて、巌《いわ》の面《おも》に靡《なび》く中を、船はただ動くともなく、白帆をのせた海が近づき、やがて横ざまに軽《かろ》くまた渚に止《とま》った。
帆の中より、水際立って、美しく水浅葱《みずあさぎ》に朝露置いた大輪《おおりん》の花一輪、白砂の清き浜に、台《うてな》や開くと、裳《もすそ》を捌《さば》いて衝《つ》と下り立った、洋装したる一人の婦人。
夜干《よぼし》に敷いた網の中を、ひらひらと拾ったが、朝景色を賞《め》ずるよしして、四辺《あたり》を見ながら、その苫船《とまぶね》に立寄って苫の上に片手をかけたまま、船の方を顧みると、千鳥は啼《な》かぬが友呼びつらん。帆の白きより白衣《びゃくえ》の婦人、水紅色《ときいろ》なるがまた一人、続いて前後に船を離れて、左右に分れて身軽に寄った。
二人は右の舷《ふなばた》に、一人は左の舷に、その苫船に身を寄せて、互《たがい》に苫を取って分けて、船の中を差覗《さしのぞ》いた。淡きいろいろの衣《きぬ》の裳は、長く渚へ引いたのである。
廉平は頂の靄を透かして、足許を差覗いて、渠等《かれら》三人の西洋婦人、惟《おも》うに誂《あつら》えの出来を見に来たな。苫をふいて伏せたのは、この人々の註文で、浜に新造の短艇《ボオト》ででもあるのであろう。
と見ると二人の脇の下を、飜然《ひらり》と飛び出した猫がある。
トタンに一人の肩を越して、空へ躍るかと、もう一匹、続いて舳《へさき》から衝《つ》と抜けた。最後のは前脚を揃えて海へ一文字、細長い茶色の胴を一畝《ひとうね》り畝らしたまで鮮麗《あざやか》に認められた。
前のは白い毛に茶の斑《まだら》で、中のは、その全身漆のごときが、長く掉《ふ》った尾の先は、舳《みよし》を掠《かす》めて失《う》せたのである。
二十二
その時、前後して、苫《とま》からいずれも面《おもて》を離し、はらはらと船を退《の》いて、ひたと顔を合わせたが、方向《むき》をかえて、三人とも四辺《あたり》を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》して彳《たたず》む状《さま》、おぼろげながら判然《はっきり》と廉平の目に瞰下《みおろ》された。
水浅葱《みずあさぎ》のが立樹に寄って、そこともなく仰いだ時、頂なる人の姿を見つけたらしい。
手を挙げて、二三度|続《つづけ》ざまに麾《さしまね》くと、あとの二人もひらひらと、高く手巾《ハンケチ》を掉《ふ》るのが見えた。
要こそあれ。
廉平は雲を抱《いだ》くがごとく上から望んで、見えるか、見えぬか、慌《あわただ》しく領《うなず》き答えて、直ちに丘の上に踵《くびす》を回《めぐ》らし、栄螺《さざえ》の
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