呼んだ。
けれども、直ぐに寐入《ねい》ったものの呼覚《よびさま》される時刻でない。
第一(松、)という、その声が、出たか、それとも、ただ呼んで見ようと心に思ったばかりであるか、それさえも現《うつつ》である。
「松や、」と言って、夫人は我が声に我と我が耳を傾ける。胸のあたりで、声は聞えたようであるが、口へ出たかどうか、心許《こころもと》ない。
まあ、口も利けなくなったのか、と情《なさけ》なく、心細く、焦って、ええと、片手に左右の胸を揺《ゆす》って、
「松や、」と、急《せ》き調子でもう一度。
(松や、)と細いのが、咽喉《のど》を放れて、縁が切れて、たよりなくどこからか、あわれに寂しく此方《こなた》へ聞えて、遥《はる》か間《ま》を隔てた襖《ふすま》の隅で、人を呼んでいるかと疑われた。
「ああ、」とばかり、あらためて、その(松や、)を言おうとすると、溜息《ためいき》になってしまう。蚊帳が煽《あお》るか、衾《ふすま》が揺れるか、畳が動くか、胸が躍るか。膝を組み緊《し》めて、肩を抱いても、びくびくと身内が震えて、乱れた褄《つま》もはらはらと靡《なび》く。
引掴《ひッつか》んでまで、撫《な》でつけた、鬢《びん》の毛が、煩《うるさ》くも頬へかかって、その都度脈を打って血や通う、と次第に烈《はげ》しくなるにつれ、上へ釣られそうな、夢の針、汀《みぎわ》の嫗《おうな》。
今にも宙へ、足が枕を離れやせん。この屋根の上に蘆《あし》が生えて、台所の煙出《けむだ》しが、水面へあらわれると、芥溜《ごみため》のごみが淀《よど》んで、泡立つ中へ、この黒髪が倒《さかさ》に、髻《たぶさ》から搦《から》まっていようも知れぬ。あれ、そういえば、軒を渡る浜風が、さらさら水の流るる響《ひびき》。
恍惚《うっとり》と気が遠い天井へ、ずしりという沈んだ物音。
船がそこったか、その船には銑太郎と自分が乗って……
今、舷《ふなべり》へ髪の毛が。
「あッ、」と声立てて、浦子は思わず枕許へすッくと立ったが、あわれこれなりに嫗の針で、天井を抜けて釣上げられよう、とあるにもあられず、ばたり膝を支《つ》くと、胸を反らして、抜け出る状《さま》に、裳《もすそ》を外。
蚊帳が顔へ搦んだのが、芬《ぷん》と鼻をついた水の香《におい》。引き息で、がぶりと一口、溺《おぼ》るるかと飲んだ思い、これやがて気つけになりぬ。
目もようよう判然《はっきり》と、蚊帳の緑は水ながら、紅《くれない》の絹のへり、かくて珊瑚《さんご》の枝ならず。浦子は辛うじて蚊帳の外に、障子の紙に描かれた、胸白き浴衣の色、腰の浅葱《あさぎ》も黒髪も、夢ならぬその我が姿を、歴然《ありあり》と見たのである。
十七
しばらくして、浦子は玉《ぎょく》ぼやの洋燈《ランプ》の心を挑《あ》げて、明《あかる》くなった燈《ともし》に、宝石輝く指の尖《さき》を、ちょっと髯《びん》に触ったが、あらためてまた掻上《かきあ》げる。その手で襟を繕って、扱帯《しごき》の下で褄《つま》を引合わせなどしたのであるが、心には、恐ろしい夢にこうまで疲労して、息づかいさえ切ないのに、飛んだ身体《からだ》の世話をさせられて、迷惑であるがごとき思いがした。
且つその身体を棄《す》てもせず、老実《まめ》やかに、しんせつにあしらうのが、何か我ながら、身だしなみよく、床《ゆか》しく、優しく、嬉しいように感じたくらい。
一つくぐって鳩尾《みずおち》から膝《ひざ》のあたりへずり下った、その扱帯の端を引上げざまに、燈《ともし》を手にして、柳の腰を上へ引いてすらりと立ったが、小用《こよう》に、と思い切った。
時に、障子を開けて、そこが何になってしまったか、浜か、山か、一里塚か、冥途《めいど》の路《みち》か。船虫が飛ぼうも、大きな油虫が駈《か》け出そうも料られない。廊下へ出るのは気がかりであったけれど、なおそれよりも恐ろしかったのは、その時まで自分が寝て居た蚊帳《かや》の内を窺《うかが》って見ることで。
蹴出《けだ》しも雪の爪尖《つまさき》へ、とかくしてずり下り、ずり下る寝衣《ねまき》の褄《つま》を圧《おさ》えながら、片手で燈をうしろへ引いて、ぼッとする、肩越のあかりに透かして、蚊帳を覗《のぞ》こうとして、爪立《つまだ》って、前髪をそっと差寄せては見たけれども、夢のために身を悶《もだ》えた、閨《ねや》の内の、情《なさけ》ない状《さま》を見るのも忌《いま》わしし、また、何となく掻巻《かいまき》が、自分の形に見えるにつけても、寝ていて、蚊帳を覗《うかが》うこの姿が透いたら、気絶しないでは済むまいと、思わずよろよろと退《すさ》って、引《ひっ》くるまる裳《もすそ》危《あやう》く、はらりと捌《さば》いて廊下へ出た。
次の室《へや》は真暗《まっくら》で、そこにはもとより誰も居ない。
閨《ねや》と並んで、庭を前に三間続きの、その一室《ひとま》を隔てた八畳に、銑太郎と、賢之助が一つ蚊帳。
そこから別に裏庭へ突き出でた角座敷の六畳に、先生が寝ている筈《はず》。
その方《ほう》にも厠《かわや》はあるが、運ぶのに、ちと遠い。
件《くだん》の次の明室《あきま》を越すと、取着《とッつき》が板戸になって、その台所を越した処に、松という仲働《なかばたらき》、お三と、もう一人女中が三人。
婦人《おんな》ばかりでたよりにはならぬが、近い上に心安い。
それにちと間はあるが、そこから一目の表門の直ぐ内に、長屋だちが一軒あって、抱え車夫が住んでいて、かく旦那《だんな》が留守の折からには、あけ方まで格子戸から灯《あかり》がさして、四五人で、ひそめくもの音。ひしひしと花ふだの響《ひびき》がするのを、保養の場所と大目に見ても、好《い》いこととは思わなかったが、時にこそよれ頼母《たのも》しい。さらばと、やがて廊下づたい、踵《かかと》の音して、するすると、裳《もすそ》の気勢《けはい》の聞ゆるのも、我ながら寂しい中に、夢から覚めたしるしぞ、と心嬉しく、明室《あきま》の前を急いで越すと、次なる小室《こべや》の三畳は、湯殿に近い化粧部屋。これは障子が明いていた。
中《うち》から風も吹くようなり、傍正面《わきしょうめん》の姿見に、勿《な》、映りそ夢の姿とて、首垂《うなだ》るるまで顔を背《そむ》けた。
新しい檜《ひのき》の雨戸、それにも顔が描かれそう。真直《まっすぐ》に向き直って、衝《つ》と燈《ともしび》を差出しながら、突《つき》あたりへ辿々《たどたど》しゅう。
十八
ばたり、閉めた杉戸の音は、かかる夜ふけに、遠くどこまで響いたろう。
壁は白いが、真暗《まっくら》な中に居て、ただそればかりを力にした、玄関の遠あかり、車夫部屋の例のひそひそ声が、このもの音にハタと留《や》んだを、気の毒らしく思うまで、今夜《こよい》はそれが嬉しかった。
浦子の姿は、無事に厠《かわや》を背後《うしろ》にして、さし置いたその洋燈《ランプ》の前、廊下のはずれに、媚《なまめ》かしく露《あら》われた。
いささか心も落着いて、カチンとせんを、カタカタとさるを抜いた、戸締り厳重な雨戸を一枚。半ば戸袋へするりと開けると、雪ならぬ夜の白砂、広庭一面、薄雲の影を宿して、屋根を越した月の影が、廂《ひさし》をこぼれて、竹垣に葉かげ大きく、咲きかけるか、今、開くと、朝《あした》の色は何々ぞ。紺に、瑠璃《るり》に、紅絞《べにしぼ》り、白に、水紅色《ときいろ》、水浅葱《みずあさぎ》、莟《つぼみ》の数は分らねども、朝顔形《あさがおなり》の手水鉢《ちょうずばち》を、朦朧《もうろう》と映したのである。
夫人は山の姿も見ず、松も見ず、松の梢《こずえ》に寄る浪の、沖の景色にも目は遣《や》らず、瞳を恍惚《うっとり》見据えるまで、一心に車夫部屋の灯《ともし》を、遥《はるか》に、船の夢の、燈台と力にしつつ、手を遣ると、……柄杓《ひしゃく》に障《さわ》らぬ。
気にもせず、なお上《うわ》の空で、冷たく瀬戸ものの縁を撫《な》でて、手をのばして、向うまで辷《すべ》らしたが、指にかかる木《こ》の葉もなかった。
目を返して透かして見ると、これはまた、胸に届くまで、近くあり。
直ぐに取ろうとする、柄杓は、水の中をするすると、反対《むこう》まえに、山の方へ柄がひとりで廻った。
夫人は手のものを落したように、俯向《うつむ》いて熟《じっ》と見る。
手水鉢と垣の間の、月の隈《くま》暗き中に、ほのぼのと白く蠢《うごめ》くものあり。
その時、切髪《きりかみ》の白髪《しらが》になって、犬のごとく踞《つくば》ったが、柄杓の柄に、痩《や》せがれた手をしかとかけていた。
夕顔の実に朱の筋の入った状《さま》の、夢の俤《おもかげ》をそのままに、ぼやりと仰向《あおむ》け、
「水を召されますかいの。」
というと、艶《つや》やかな歯でニヤリと笑む。
息とともに身を退《ひ》いて、蹌踉々々《よろよろ》と、雨戸にぴッたり、風に吹きつけられたようになって面《おもて》を背けた。斜《はす》ッかいの化粧部屋の入口を、敷居にかけて廊下へ半身。真黒《まっくろ》な影法師のちぎれちぎれな襤褸《ぼろ》を被《き》て、茶色の毛のすくすくと蔽《おお》われかかる額のあたりに、皺手《しわで》を合わせて、真俯向《まうつむ》けに此方《こなた》を拝んだ這身《はいみ》の婆《ばば》は、坂下の藪《やぶ》の姉様《あねさま》であった。
もう筋も抜け、骨崩れて、裳《もすそ》はこぼれて手水鉢、砂地に足を蹈《ふ》み乱して、夫人は橋に廊下へ倒れる。
胸の上なる雨戸へ半面、ぬッと横ざまに突出したは、青ンぶくれの別の顔で、途端に銀色の眼《まなこ》をむいた。
のさのさのさ、頭で廊下をすって来て、夫人の枕に近づいて、ト仰いで雨戸の顔を見た、額に二つ金の瞳、真赤《まっか》な口を横ざまに開けて、
「ふァはははは、」
「う、うふふ、うふふ、」と傾《かた》がって、戸を揺《ゆす》って笑うと、バチャリと柄杓を水に投げて、赤目の嫗《おうな》は、
「おほほほほほ、」と尋常な笑い声。
廊下では、その握られた時氷のように冷たかった、といった手で、頬にかかった鬢《びん》の毛を弄《もてあそ》びながら、
「洲《す》の股《また》の御前《ごぜん》も、山の峡《かい》の婆さまも早かったな。」というと、
「坂下の姉《あね》さま、御苦労にござるわや。」と手水鉢から見越して言った。
銀の目をじろじろと、
「さあ、手を貸され、連れて行《い》にましょ。」
十九
「これの、吐《つ》く呼吸《いき》も、引く呼吸も、もうないかいの、」と洲《す》の股《また》の御前《ごぜん》がいえば、
「水くらわしや、」
と峡《かい》の婆《ばば》が邪慳《じゃけん》である。
ここで坂下の姉様《あねさま》は、夫人の前髪に手をさし入れ、白き額を平手で撫《な》でて、
「まだじゃ、ぬくぬくと暖い。」
「手を掛けて肩を上げされ、私《わし》が腰を抱こうわいの。」
と例の横あるきにその傾いた形を出したが、腰に組んだ手はそのままなり。
洲の股の御前、傍《かたわら》より、
「お婆さん、ちょっとその※[#「魚+覃」、第3水準1−94−50]《えい》の針で口の端《はた》縫わっしゃれ、声を立てると悪いわや。」
「おいの、そうじゃの。」と廊下でいって、夫人の黒髪を両手で圧《おさ》えた。
峡の婆、僅《わずか》に手を解き、頤《おとがい》[#ルビの「おとがい」は底本では「おとがひ」]で襟を探って、無性《ぶしょう》らしく撮《つま》み出した、指の爪《つめ》の長く生伸《はえの》びたかと見えるのを、一つぶるぶると掉《ふ》って近づき、お伽話《とぎばなし》の絵に描いた外科医者という体《てい》で、震《おのの》く唇に幽《かすか》に見える、夫人の白歯《しらは》の上を縫うよ。
浦子の姿は烈《はげ》しく揺れたが、声は始めから得《え》立てなかった。目は※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》いていたのである
「もう可《よ》いわいの、」
と峡の婆、傍《かたわら》に身を開くと、坂の
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