するものではねえと、大丈夫に承合《うけあ》うし、銑太郎もなかなか素人離れがしている由、人の風説《うわさ》も聞いているから、安心して乗って出た。
 岩の間をすらすらと縫って、銑さんが船を持って来てくれる間、……私は銀の粉を裏ごしにかけたような美しい砂地に立って、足許《あしもと》まで藍《あい》の絵具を溶いたように、ひたひた軽く寄せて来る、浪に心は置かなかったが、またそうでもない。先刻《さっき》の荒物屋が背後《うしろ》へ来て、あの、また変な声で、御新姐様《ごしんぞさま》や、といいはしまいかと、大抵気を揉《も》んだ事ではない。……
 婆さんは幾らも居る、本宅のお針も婆さんなら、自分に伯母が一人、それもお婆さん。第一近い処が、今内に居る、松やの阿母《おふくろ》だといって、この間隣村から尋ねて来た、それも年より。なぜあんなに恐ろしかったか、自分にも分らぬくらい。
 毛虫は怪しいものではないが、一目見ても総毛立つ。おなじ事で、たとえ不気味だからといって、ちっとも怪しいものではないと、銑さんはいうけれど、あの、黄金色《こがねいろ》の目、黄《きいろ》な顔、這《は》うように歩行《ある》いた工合。ああ、思い出しても悚然《ぞっ》とする。
 夫人は掻巻の裾《すそ》に障《さわ》って、爪尖《つまさき》からまた悚然とした。
 けれどもその時、浜辺に一人立っていて、なんだか怪しいものなぞは世にあるものとは思えないような、気丈夫な考えのしたのは、自分が彳《たたず》んでいた七八間さきの、切立《きった》てに二丈ばかり、沖から燃ゆるような紅《くれない》の日影もさせば、一面には山の緑が月に映って、練絹《ねりぎぬ》を裂くような、柔《やわらか》な白浪《しらなみ》が、根を一まわり結んじゃ解けて拡がる、大きな高い巌《いわ》の上に、水色のと、白衣《びゃくえ》のと、水紅色《ときいろ》のと、西洋の婦人が三人。――
 白衣のが一番上に、水色のその肩が、水紅色のより少し高く、一段下に二人並んで、指を組んだり、裳《もすそ》を投げたり、胸を軽くそらしたり、時々楽しそうに笑ったり、話声は聞えなかったが、さものんきらしく、おもしろそうに遊んでいる。
 それをまたその人々の飼犬らしい、毛色のいい、猟虎《らっこ》のような茶色の洋犬《かめ》の、口の長い、耳の大きなのが、浪際を放れて、巌《いわ》の根に控えて見ていた。
 まあ、こんな人たちもあるに、あの婆さんを妖物《ばけもの》か何ぞのように、こうまで恐《こわ》がるのも、と恥かしくもあれば、またそんな人たちが居る世の中に、と頼母《たのも》しく。……
 と、浦子は蚊帳に震えながら思い続けた。

       十四

 ざんぶと浪に黒く飛んで、螺線《らせん》を描く白い水脚《みずあし》、泳ぎ出したのはその洋犬《かめ》で。
 来るのは何ものだか、見届けるつもりであったろう。
 長い犬の鼻づらが、水を出て浮いたむこうへ、銑さんが艪《ろ》をおしておいでだった。
 うしろの小松原の中から、のそのそと人が来たのに、ぎょっとしたが、それは石屋の親方で。
 草履ばきでも濡れさせまいと、船がそこった間だけ、負《おぶ》ってくれて、乗ると漕《こ》ぎ出すのを、水にまだ、足を浸したまま、鷭《ばん》のような姿で立って、腰のふたつ提《さ》げの煙草入《たばこいれ》を抜いて、煙管《きせる》と一所に手に持って、火皿をうつむけにして吹きながら、確かなもんだ確かなもんだと、銑さんの艪《ろ》を誉《ほ》めていた。
 もう船が岩の間を出たと思うと、尖った舳《へさき》がするりと辷《すべ》って、波の上へ乗ったから、ひやりとして、胴の間《ま》へ手を支《つ》いた。
 その時緑青色のその切立《きった》ての巌《いわ》の、渚《なぎさ》で見たとは趣がまた違って、亀の背にでも乗りそうな、中ごろへ、早|薄靄《うすもや》が掛《かか》った上から、白衣《びゃくえ》のが桃色の、水色のが白の手巾《ハンケチ》を、二人で、小さく振ったのを、自分は胴の間に、半ば袖《そで》をついて、倒れたようになりながら、帽子の裡《うち》から仰いで見た。
 二つ目の浜で、地曳《じびき》を引く人の数は、水を切った網の尖《さき》に、二筋黒くなって砂山かけて遥《はる》かに見えた。
 船は緑の岩の上に、浅き浅葱《あさぎ》の浪を分け、おどろおどろ海草の乱るるあたりは、黒き瀬を抜けても過ぎたが、首きり沈んだり、またぶくりと浮いたり、井桁《いげた》に組んだ棒の中に、生簀《いけす》があちこち、三々五々。鴎《かもめ》がちらちらと白く飛んで、浜の二階家のまわり縁を、行《ゆ》きかいする女も見え、簾《すだれ》を上げる団扇《うちわ》も見え、坂道の切通しを、俥《くるま》が並んで飛ぶのさえ、手に取るように見えたもの。
 陸近《くがぢか》なれば憂慮《きづか》いもなく、ただ景色の好《よ》さに、ああまで恐ろしかった婆《ばば》の家、巨刹《おおでら》の藪《やぶ》がそこと思う灘《なだ》を、いつ漕ぎ抜けたか忘れていたのに、何を考え出して、また今の厭《いな》な年寄。……
 ――それが夢か。――
「ま、待って、」
 はてな、と夫人は、白き頸《うなじ》を枕《まくら》に着けて、おくれ毛の音するまで、がッくりと打《うち》かたむいたが、身の戦《わなな》くことなお留《や》まず。
 それとも渚の砂に立って、巌の上に、春秋《はるあき》の美しい雲を見るような、三人の婦人の衣《きぬ》を見たのが夢か。海も空も澄み過ぎて、薄靄《うすもや》の風情も妙《たえ》に余る。
 けれども、犬が泳いでいた、月の中なら兎《うさぎ》であろうに。
 それにしても、また石屋の親方が、水に彳《たたず》んだ姿が怪しい。
 そういえば用が用、仏像を頼みに行《ゆ》くのだから、と巡礼染《じゅんれいじ》みたも心嬉しく、浴衣がけで、草履で、二つ目へ出かけたものが、人の背《せなか》で浪を渡って、船に乗ろうとは思いもかけぬ。
 いやいや思いもかけぬといえば、荒物屋の、あの老婆《としより》。通りがかりに、ちょいとほんの燐枝《マッチ》を買いに入ったばかりで、あんな、恐ろしい、忌《いま》わしい不気味なものを、しかも昼間見ようとは、それこそ夢にも知らなかった。
 船はそのためとして見れば、巌の婦人も夢ではない。石屋の親方が自分を背負《おぶ》って、世話をしてくれたのも、銑さんが船を漕いだのも、浪も、鴎も夢ではなくって、やっぱり今のが夢であろう。
 ――「ああ、恐しい夢を見た。」――
 と肩がすくんで、裳《もすそ》わなわな、瞳《ひとみ》を据えて恐々《こわごわ》仰ぐ、天井の高い事。前後左右は、どのくらいあるか分らず、凄《すご》くて※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》すことさえならぬ、蚊帳《かや》に寂しき寝乱れ姿。

       十五

 果して夢ならば、海も同じ潮入りの蘆間《あしま》の水。水のどこからが夢であって、どこまでが事実であったか。船はもう一浪《ひとなみ》で、一つ目の浜へ着くようになった時、ここから上って、草臥《くたび》れた足でまた砂を蹈《ふ》もうより、小川尻《おがわじり》へ漕《こ》ぎ上《あが》って、薦の葉を一またぎ、邸《やしき》の背戸の柿の樹へ、と銑さんの言った事は――確《たしか》に今も覚えている。
 艪《ろ》よりは潮が押し入れた、川尻のちと広い処を、ふらふらと漕ぎのぼると、浪のさきが飜って、潮の加減も点燈《ひともし》ごろ。
 帆柱が二本並んで、船が二|艘《そう》かかっていた。舷《ふなばた》を横に通って、急に寒くなった橋の下、橋杭《はしぐい》に水がひたひたする、隧道《トンネル》らしいも一思い。
 石垣のある土手を右に、左にいつも見る目より、裾《すそ》も近ければ頂もずっと高い、かぶさる程なる山を見つつ、胴ぶくれに広くなった、湖のような中へ、他所《よそ》の別荘の刎橋《はねばし》が、流《ながれ》の半《なかば》、岸近な洲《す》へ掛けたのが、満潮《みちしお》で板も除《の》けてあった、箱庭の電信ばしらかと思うよう、杭がすくすくと針金ばかり。三角形《さんかくなり》の砂地が向うに、蘆の葉が一靡《ひとなび》き、鶴の片翼《かたつばさ》見るがごとく、小松も斑《ふ》に似て十本《ともと》ほど。
 暮れ果てず灯《ともし》は見えぬが、その枝の中を透く青田越《あおたご》しに、屋根の高いはもう我が家。ここの小松の間を選んで、今日あつらえた地蔵菩薩《じぞうぼさつ》を――
 仏様でも大事ない、氏神にして祭礼《おまつり》を、と銑さんに話しながら見て過ぎると、それなりに川が曲って、ずッと水が狭うなる、左右は蘆が渺《びょう》として。
 船がその時ぐるりと廻った。
 岸へ岸へと支《つか》うるよう。しまった、潮が留《とま》ったと、銑さんが驚いて言った。船べりは泡だらけ。瓜《うり》の種、茄子《なす》の皮、藁《わら》の中へ木の葉が交《まじ》って、船も出なければ芥《あくた》も流れず。真水がここまで落ちて来て、潮に逆《さから》って揉《も》むせいで。
 あせって銑さんのおした船が、がッきと当って杭《くい》に支《つか》えた。泡沫《しぶき》が飛んで、傾いた舷《ふなばた》へ、ぞろりとかかって、さらさらと乱れたのは、一束《ひとたばね》の女の黒髪、二巻ばかり杭に巻いたが、下には何が居るか、泥で分らぬ。
 ああ、芥の臭《におい》でもすることか、海松布《みる》の香でもすることか、船へ搦《から》んで散ったのは、自分と同一《おなじ》鬢水《びんみず》の……
 ――浦子は寝ながら呼吸《いき》を引いた。――
 ――今も蚊帳に染む梅花の薫《かおり》。――
 あ、と一声|退《の》こうとする、袖《そで》が風に取られたよう、向うへ引かれて、靡《なび》いたので、此方《こなた》へ曳《ひ》いて圧《おさ》えたその袖に、と見ると怪しい針があった。
 蘆の中に、色の白い痩《や》せた嫗《おうな》、高家《こうけ》の後室ともあろう、品の可《い》い、目の赤いのが、朦朧《もうろう》と踞《しゃが》んだ手から、蜘蛛《くも》の囲《い》かと見る糸|一条《ひとすじ》。
 身悶《みもだ》えして引切《ひっき》ると、袖は針を外れたが、さらさらと髪が揺れ乱れた。
 その黒髪の船に垂れたのが、逆《さかさ》に上へ、ひょろひょろと頬《ほお》を掠《かす》めると思うと――(今もおくれ毛が枕に乱れて)――身体《からだ》が宙に浮くのであった。
「ああ!」
 船の我身は幻で、杭に黒髪の搦みながら、溺《おぼ》れていたのが自分であろうか。
 また恐しい嫗の手に、怪しい針に釣り上げられて、この汗、その水、この枕、その夢の船、この身体、四角な室《へや》も穴めいて、膚《はだえ》の色も水の底、おされて呼吸《いき》の苦しげなるは、早や墳墓《おくつき》の中にこそ。呵呀《あなや》、この髪が、と思うに堪えず、我知らず、ハッと起きた。
 枕を前に、飜った掻巻《かいまき》を背《せな》の力に、堅いもののごとく腕《かいな》を解いて、密《そ》とその鬢《びん》を掻上《かきあ》げた。我が髪ながらヒヤリと冷たく、褄《つま》に乱れた縮緬《ちりめん》の、浅葱《あさぎ》も色の凄《すご》きまで。

       十六

 疲れてそのまま、掻巻《かいまき》に頬《ほお》をつけたなり、浦子はうとうととしかけると、胸の動悸《どうき》に髪が揺れて、頭《かしら》を上へ引かれるのである。
「ああ、」
 とばかり声も出ず、吃驚《びっくり》したようにまた起直った。
 扱帯《しごき》は一層《ひとしお》しゃらどけして、褄《つま》もいとどしく崩れるのを、懶《ものう》げに持て扱いつつ、忙《せわ》しく肩で呼吸《いき》をしたが、
「ええ、誰も来てくれないのかねえ、私が一人でこんなに、」
 と重たい髷《まげ》をうしろへ振って、そのまま仰《のけ》ざまに倒れそうな、身を揉《も》んで膝《ひざ》で支えて、ハッとまた呼吸《いき》を吐《つ》くと、トントンと岩に当って、時々|崖《がけ》を洗う浪。松風が寂《しん》として、夜が更けたのに心着くほど、まだ一声も人を呼んでは見ないのであった。
「松か、」
 夫人は残燈《ありあけ》に消え残る、幻のような姿で、蚊帳の中から女中を
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