呼んだ。
 けれども、直ぐに寐入《ねい》ったものの呼覚《よびさま》される時刻でない。
 第一(松、)という、その声が、出たか、それとも、ただ呼んで見ようと心に思ったばかりであるか、それさえも現《うつつ》である。
「松や、」と言って、夫人は我が声に我と我が耳を傾ける。胸のあたりで、声は聞えたようであるが、口へ出たかどうか、心許《こころもと》ない。
 まあ、口も利けなくなったのか、と情《なさけ》なく、心細く、焦って、ええと、片手に左右の胸を揺《ゆす》って、
「松や、」と、急《せ》き調子でもう一度。
(松や、)と細いのが、咽喉《のど》を放れて、縁が切れて、たよりなくどこからか、あわれに寂しく此方《こなた》へ聞えて、遥《はる》か間《ま》を隔てた襖《ふすま》の隅で、人を呼んでいるかと疑われた。
「ああ、」とばかり、あらためて、その(松や、)を言おうとすると、溜息《ためいき》になってしまう。蚊帳が煽《あお》るか、衾《ふすま》が揺れるか、畳が動くか、胸が躍るか。膝を組み緊《し》めて、肩を抱いても、びくびくと身内が震えて、乱れた褄《つま》もはらはらと靡《なび》く。
 引掴《ひッつか》んでまで、撫《な》
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