、ああまで恐ろしかった婆《ばば》の家、巨刹《おおでら》の藪《やぶ》がそこと思う灘《なだ》を、いつ漕ぎ抜けたか忘れていたのに、何を考え出して、また今の厭《いな》な年寄。……
 ――それが夢か。――
「ま、待って、」
 はてな、と夫人は、白き頸《うなじ》を枕《まくら》に着けて、おくれ毛の音するまで、がッくりと打《うち》かたむいたが、身の戦《わなな》くことなお留《や》まず。
 それとも渚の砂に立って、巌の上に、春秋《はるあき》の美しい雲を見るような、三人の婦人の衣《きぬ》を見たのが夢か。海も空も澄み過ぎて、薄靄《うすもや》の風情も妙《たえ》に余る。
 けれども、犬が泳いでいた、月の中なら兎《うさぎ》であろうに。
 それにしても、また石屋の親方が、水に彳《たたず》んだ姿が怪しい。
 そういえば用が用、仏像を頼みに行《ゆ》くのだから、と巡礼染《じゅんれいじ》みたも心嬉しく、浴衣がけで、草履で、二つ目へ出かけたものが、人の背《せなか》で浪を渡って、船に乗ろうとは思いもかけぬ。
 いやいや思いもかけぬといえば、荒物屋の、あの老婆《としより》。通りがかりに、ちょいとほんの燐枝《マッチ》を買いに入ったば
前へ 次へ
全96ページ中45ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング