かあるべく見えるのであった。
夫人は、ただもの言わんとして唇のわななくのみ。
「貴女《あなた》も、昨日《きのう》、その地蔵をあつらえにおいでの途中から、怪しいものに憑《つ》かれたとおっしゃった。……
すべて、それが魔法なので、貴女を魅して、夢現《ゆめうつつ》の境《きょう》に乗じて、その妄執《もうしゅう》を晴しました。
けれども余りに痛《いたわ》しい。ひとえに獣にとお思いなすって、玉のごときそのお身体《からだ》を、砕いて切っても棄《す》てたいような御容子《ごようす》が、余りお可哀相《かわいそう》で見ておられん。
夫人《おくさん》、真の獣よりまだこの廉平と、思《おぼ》し召す方が、いくらかお心が済むですか。」
夫人はせいせい息を切った。
二十八
「どうですか、余り推《おし》つけがましい申分《もうしぶん》ではありますが、心はおなじ畜生でも、いくらか人間の顔に似た、口を利く、手足のある、廉平の方が可《い》いですか。」
口へ出すとよりは声をのんで、
「貴下《あなた》、」
「…………」
「貴下、」
「…………」
「貴下、ほんとうでございますか。」
「勿論、懺悔《ざんげ》したのじゃで。」
と、眉を開いてきっぱりという。
膝《ひざ》でじりりとすり寄って、
「ええ、嬉しい。貴下、よくおっしゃって下さいました。」
としっかと膝に手をかけて、わッとまた泣きしずむ。廉平は我ながら、訝《あや》しいまで胸がせまった。
「私と言われて、お喜びになりますほど、それほどの思《おもい》をなさったですか。」
「いいえ、もう、何ともたとえようはござんせん。死んでも死骸《しがい》が残ります、その獣の爪《つめ》のあと舌のあとのあります、毛だらけな膚《はだ》が残るのですもの。焼きましても狐《きつね》狸《たぬき》の悪い臭《におい》がしましょうかと、心残りがしましたのに、貴下《あなた》、よく、思い切ってそうおっしゃって下さいました。快よく死なれます、死なれるんでございますよ。」
「はてさて、」
「………………」
「じゃ、やっぱり、死ぬのを思い止まっちゃ下さらん。」
顔を見合わせ、打頷《うちうなず》き、
「むむ、成程、」
と腕を解いて、廉平は従容《しょうよう》として居直った。
「成程、そうじゃ。貴女《あなた》ほどのお方が、かかる恥辱をお受けなさって、夢にして、ながらえておいでなさる筈《はず》ではないのじゃった。
懺悔をいたせば、悪い夢とあきらめて、思い直して頂けることもあろうかと思ったですが、いかにも取返しのつかんお身体《からだ》にしたのじゃった、恥入ります。
夫人《おくさん》、貴女ばかりは殺しはせんのじゃ。」
「いいえ、飛んだことをおっしゃいます。殿方には何でもないのでございますもの、そして懺悔には罪が消えますと申します、お怨《うら》みには思いません。」
「許して下さるか。」
「女の口から行《ゆ》き過ぎではございますが、」
「許して下さる。」
「はい、」
「それではどうぞ、思い直して、」
「私はもう、」
と衝《つ》と前褄《まえづま》を引寄せる。岩の下を掻《か》いくぐって、下の根のうつろを打って、絶えず、丁々《トントン》と鼓の音の響いたのが、潮や満ち来る、どッと烈《はげ》しく、ざぶり砕けた波がしら、白滝《しらたき》を倒《さかしま》に、颯《さっ》とばかり雪を崩して、浦子の肩から、頭《つむり》から。
「あ、」と不意に呼吸《いき》を引いた。濡れしおたれた黒髪に、玉のつらなる雫《しずく》をかくれば、南無三《なむさん》浪に攫《さら》わるる、と背《せな》を抱くのに身を恁《もた》せて、観念した顔《かんばせ》の、気高きまでに莞爾《にっこ》として、
「ああ、こうやって一思いに。」
「夫人《おくさん》、おくれはせんですよ。」と、顔につららを注いで言った。打返しがまたざっと。
「※[#「さんずい+散」、261−9]《しぶき》がかかる、※[#「さんずい+散」、261−9]がかかる、危いぞ。」
と、空から高く呼《とば》わる声。
靄《もや》が分れて、海面《うなづら》に兀《こつ》として聳《そび》え立った、巌《いわ》つづきの見上ぐる上。草蒸す頂に人ありて、目の下に声を懸けた、樵夫《きこり》と覚しき一個《ひとり》の親仁《おやじ》。面《おもて》長く髪の白きが、草色の針目衣《はりめぎぬ》に、朽葉色《くちばいろ》の裁着《たッつけ》穿《は》いて、草鞋《わらんじ》を爪反《つまぞ》りや、巌端《いわばな》にちょこなんと平胡坐《ひらあぐら》かいてぞいたりける。
その岩の面《おも》にひたとあてて、両手でごしごし一|挺《ちょう》の、きらめく刃物を悠々と磨《と》いでいたり。
磨ぎつつ、覗《のぞ》くように瞰下《みおろ》して、
「上へ来さっしゃい、上へ来さっしゃい、浪に引かれると危いわ
前へ
次へ
全24ページ中23ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング