のであった。
「いや、」
 と当《あて》なしに大きく言った、が、いやな事はちっともない。どうして発見《みいだ》したかを怪しまれて、湾の口を横ぎって、穉児《おさなご》に船を漕《こ》がせつつ、自分が語ったは、まずその通《とおり》。
「ですけれども、何ですな。」
「いいえ」
 今度は夫人から遮って、
「もう昨日《きのう》、二つ目の浜へ参りました途中から、それはそれは貴下《あなた》、忌《いま》わしい恐ろしい事ばかりで、私は何だか約束ごとのように存じます。
 三十という年に近いこの年になりますまで、少《わか》い折から何一つ苦労ということは知りませんで、悲しい事も、辛い事もついぞ覚えはありません、まだ実家には両親も達者で居ます身の上ですもの。
 腹の立った事さえござんせん、余《あんま》り果報な身体《からだ》ですから、盈《みつ》れば虧《か》くるとか申します通り、こんな恐しい目に逢いましたので。唯今《ただいま》ここへ船を漕いでくれました小児《こども》たちが、年こそ違いますけれども、そっくり大きいのが銑さん、小さい方が賢之助に肖《に》ておりましたのも、皆《みんな》私の命数で、何かの因縁なんでございましょうから。」
 いうことの極めて確かに、心狂える様子もないだけ、廉平は一層《ひとしお》慰めかねる。

       二十七

 夫人はわずかに語るうちも、あまたたび息を継ぎ、
「小児《こども》と申しても継《まま》しい中で、それでも姉弟《きょうだい》とも、真《ほん》の児《こ》とも、賢之助は可愛くッてなりません。ただ心にかかりますのはそれだけですが、それも長年、貴下《あなた》が御丹精下さいましたお庇《かげ》で、高等学校へ入学も出来ましたのでございますから、きっと私の思いでも、一人前になりましょう。
 もう私は、こんな身体《からだ》、見るのも厭《いや》でなりません。ぶつぶつ切って刻んでも棄《す》てたいように思うんですもの、ちっとも残り惜《おし》いことはないのですが、慾《よく》には、この上の願いには、これが、何か、義理とか意気とか申すので死ぬんなら、本望でございますのに、活《い》きながら畜生道とはどうした因果なんでございましょうねえ。」
 と、心もやや落着いたか、先のようには泣きもせで、濁りも去った涼しい目に、ほろりとしたのを、熟《じっ》と見て、廉平|堪《たま》りかねた面色《おももち》して、唇をわななかし、小鼻に柔和な皺《しわ》を刻んで、深く両手を拱《こまぬ》いたが、噫《ああ》、我かつて誓うらく、いかなる時にのぞまんとも、我《わが》心、我が姿、我が相好、必ず一体の地蔵のごとくしかくあるべき也《なり》と、そもさんか菩薩《ぼさつ》。
「夫人《おくさん》、どうしても、貴女《あなた》、怪《あやし》い獣に……という、疑《うたがい》は解けんですか。」
「はい、お恥かしゅう存じます。」と手を支《つ》いて、誰《たれ》にか詫《わ》び入る、そのいじらしさ。
 眼《まなこ》を閉じたが、しばらくして、
「恐るべきです、恐るべきだ。夢現《ゆめうつつ》の貴女《あなた》には、悪獣《あくじゅう》の体《たい》に見えましたでありましょう。私の心は獣《けだもの》でした。夫人《おくさん》、懺悔《ざんげ》をします。廉平が白状するです。貴女に恥辱を被らしたものは、四脚《よつあし》の獣ではない、獣のような人間じゃ。
 私です。
 鳥山廉平一生の迷いじゃ、許して下さい。」と、その襯衣《しゃつ》ばかりの頸《うなじ》を垂れた。
 夫人はハッと顔を上げて、手をつきざまに右視左瞻《とみこうみ》つつ、背《せな》に乱れた千筋《ちすじ》の黒髪、解くべき術《すべ》もないのであった。
「許して下さい。お宅へ参って、朝夕、貴女《あなた》に接したのが因果です。賢君に対して殆《ほと》んど献身的に尽したのは、やがて、これ、貴女に生命を捧げていたのです。
 未《いま》だ四十という年にもならんで、御存じの通り、私は、色気もなく、慾気もなく、見得もなく、およそ出世間的に超然として、何か、未来の霊光を認めておるような男であったのを御存じでしょう。
 なかなか以《もっ》て、未来の霊光ではなく、貴女のその美しいお姿じゃった。
 けれども、到底尋常では望みのかなわぬことを悟ったですから、こんど当地の別荘をおなごりに、貴女のお傍《そば》を離れるに就いて、非常な手段を用いたですよ。
 五年勤労に酬《むく》いるのに、何か記念の品をと望まれて、悟《さとり》も徳もなくていながら、ただ仏体を建てるのが、おもしろい、工合のいい感じがするで、石地蔵を願いました。
 今の世に、さような変ったことを言い、かわったことを望むものが、何……をするとお思いなさる。
 廉平は魔法づかいじゃ。」
 と石上に跣坐《ふざ》したその容貌《ようぼう》、その風采《ふうさい》、或はし
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