。」
という。浪は水晶の柱のごとく、倒《さかしま》にほとばしって、今つッ立った廉平の頭上を飛んで、空ざまに攀《よ》ずること十丈、親仁の手許の磨ぎ汁を一洗滌《ひとあらい》、白き牡丹《ぼたん》の散るごとく、巌角《いわかど》に飜って、海面《うなづら》へざっと引く。
「おじご、何を、何をしてござるのか。」と、廉平はわざと落着いて、下からまず声を送った。
「石鑿《いしのみ》を研ぐよ。二つ目の浜の石屋に頼まれての、今度建立さっしゃるという、地蔵様の石を削るわ。」
「や、親仁御《おじご》がな。」
「おお、此方衆《こなたしゅ》はその註文のぬしじゃろ。そうかの。はて、道理こそ、婆々《ばば》どもが附き纏《まと》うぞ。」
婆々と云うよ、生死《しょうし》を知らぬ夫人の耳に、鋭くその鑿をもって抉《えぐ》るがごとく響いたので、
「もし、」と両膝をついて伸び上った。
「婆《ばば》とお云いなさいますのは。」
「それ、銀目と、金目と、赤い目の奴等《やつら》よ。主達《ぬしたち》が功徳での、地蔵様が建ったが最後じゃ。魔物め、居処《いどこ》がなくなるじゃで、さまざまに祟《たた》りおって、命まで取ろうとするわ。女子衆《おなごしゅ》、心配さっしゃんな、身体《からだ》は清いぞ。」
とて、鑿《のみ》をこつこつ。
「何様それじゃ、昨日《きのう》から、時々黒雲の湧《わ》くように、我等の身体を包みました。婆というは、何ものでござるじゃろう。」と、廉平は揖《ゆう》しながら、手を翳《かざ》して仰いで言った。
皺手《しわで》に呼吸《いき》をハッとかけ、斜めに丁《ちょう》と鑿を押えて、目一杯に海を望み、
「三千世界じゃ、何でも居ようさ。」
「どこに、あの、どこに居ますのでございますえ。」
「それそれそこに、それ、主たちの廻りによ。」
「あれえ、」
「およそ其奴等《そいつら》がなす業じゃ。夜一夜踊りおって[#「踊りおって」は底本では「踊りおつて」]騒々しいわ、畜生ども、」
とハタと見るや、うしろの山に影大きく、眼《まなこ》の光|爛々《らんらん》として、知るこれ天宮の一将星。
「動くな!」
と喝《かっ》する下に、どぶり、どぶり、どぶり、と浪よ、浪よ、浪よ渦《うずま》くよ。
同時に、衝《つ》とその片手を挙げた、掌《たなごころ》の宝刀、稲妻の走るがごとく、射て海に入《い》るぞと見えし。
矢よりも疾《はや》く漕寄《こぎよ》せた、同じ童《わらべ》が艪《ろ》を押して、より幼き他の児《ちご》と、親船に寝た以前《さき》の船頭、三体ともに船に在《あ》り。
斜めに高く底見ゆるまで、傾いた舷《ふなべり》から、二|人《にん》半身を乗り出《いだ》して、うつむけに海を覗《のぞ》くと思うと、鉄《くろがね》の腕《かいな》、蕨《わらび》の手、二条の柄がすっくと空、穂尖《ほさき》を短《みじか》に、一斉に三叉《みつまた》の戟《ほこ》を構えた瞬間、畳およそ百余畳、海一面に鮮血《からくれない》。
見よ、南海に巨人あり、富士山をその裾に、大島を枕にして、斜めにかかる微妙の姿。青嵐《あおあらし》する波の彼方《かなた》に、荘厳《そうごん》なること仏のごとく、端麗なること美人に似たり。
怪しきものの血潮は消えて、音するばかり旭《あさひ》の影。波を渡るか、宙を行《ゆ》くか、白き鵞鳥《がちょう》の片翼《かたつばさ》、朝風に傾く帆かげや、白衣《びゃくえ》、水紅色《ときいろ》、水浅葱《みずあさぎ》、ちらちらと波に漏れて、夫人と廉平が彳《たたず》める、岩山の根の巌《いわ》に近く、忘るるばかりに漕ぐ蒼空《あおぞら》。魚《うお》あり、一尾|舷《ふなばた》に飛んで、鱗《うろこ》の色、あたかも雪。
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==篇中の妖婆《ようば》の言葉(がぎぐげご)は凡《すべ》て、半濁音にてお読み取り下されたく候==
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[#地から1字上げ]明治三十八(一九〇五)年十二月
底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年10月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第九卷」岩波書店
1942(昭和17)年3月30日発行
※誤植の確認には底本の親本を参照しました。
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2006年11月15日作成
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