を斜めに、近々と帽の中。
「まったく色が悪い。どうも毛虫ではないようですね。」
 これには答えず、やや石段の前を通った。
 しばらくして、
「銑さん、」
「ええ、」
「帰途《かえり》に、またここを通るんですか。」
「通りますよ。」
「どうしても通らねば不可《いけ》ませんかねえ、どこぞ他《ほか》に路がないんでしょうか。」
「海ならあります。ここいらは叔母さん、海岸の一筋路ですから、岐路《わかれみち》といっては背後《うしろ》の山へ行《ゆ》くより他《ほか》にはないんですが、」
「困りましたねえ。」
 と、つくづく云う。
「何ね、時刻に因って、汐《しお》の干ている時は、この別荘の前なんか、岩を飛んで渡られますがね、この節の月じゃどうですか、晩方干ないかも知れません。」
「船はありますか。」
「そうですね、渡船《わたしぶね》ッて別にありはしますまいけれど、頼んだら出してくれないこともないでしょう、さきへ行って聞いて見ましょう。」
「そうね。」
「何、叔母さんさえ信用するんなら、船だけ借りて、漕《こ》ぐことは僕にも漕げます。僕じゃ危険《けんのん》だというでしょう。」
「何《なん》でも可《よ》うござんすから、銑さん、貴郎《あなた》、どうにかして下さい。私はもう帰途《かえり》にあの店の前を通りたくないんです。」
 とまた俯向《うつむ》いたが恐々《こわごわ》らしい。
「叔母さん、まあ、一体、何ですか。」と、余りの事に微笑《ほほえ》みながら。

       四

「もう聞えやしますまいね。」
 と憚《はばか》る所あるらしく、声もこの時なお低い。
「何が、どこで、叔母さん。」
「あすこまで、」
「ああ! 汚店《きたなみせ》へ、」
「大きな声をなさんなよ。」と吃驚《びっくり》したように慌《あわただ》しく、瞳《ひとみ》を据えて、密《そっ》という。
「何が聞えるもんですか。」
「じゃあね、言いますけれど、銑さん、私がね、今、早附木《マッチ》を買いに入ると、誰も居ないのよ。」
「へい?」
「下さいな、下さいなッて、そういうとね。穴が開いて、こわれごわれで、鼠の家の三階建のような、取附《とッつき》の三段の古棚の背《うしろ》のね、物置みたいな暗い中から、――藻屑《もくず》を曳《ひ》いたかと思う、汚い服装《なり》の、小さな婆《ばあ》さんがね、よぼよぼと出て来たんです。
 髪の毛が真白《まっしろ》でね、かれこれ八十にもなろうかというんだけれど、その割には皺《しわ》がないの、……顔に。……身体《からだ》は痩《や》せて骨ばかり、そしてね、骨が、くなくなと柔かそうに腰を曲げてさ。
 天窓《あたま》でものを見るてッたように、白髪《しらが》を振って、ふッふッと息をして、脊の低いのが、そうやって、胸を折ったから、そこらを這《は》うようにして店へ来るじゃありませんか。
 早附木を下さいなッて、云ったけれど聞えません。もっともね、はじめから聞えないのは覚悟だというように、顔を上げてね、人の顔を視《なが》めてさ。目で承りましょうと云うんじゃないの。
 お婆さん、早附木を下さい、早附木を、といった、私の唇の動くのを、熟《じっ》と視めていたッけがね。
 その顔を上げているのが大儀そうに、またがッくり俯向《うつむ》くと、白髪の中から耳の上へ、長く、干からびた腕を出したんですがね、掌《てのひら》が大きいの。
 それをね、けだるそうに、ふらふらとふって、片々《かたかた》の人指《ひとさし》ゆびで、こうね、左の耳を教えるでしょう。
 聞えないと云うのかね、そんなら可《よ》うござんす。私は何だか一目見ると、厭《いや》な心持がしたんですからね、買わずと可《い》いから、そのまま店を出ようと思うと、またそう行《ゆ》かなくなりましたわ。
 弱るじゃありませんか、婆さんがね、けだるそうに腰を伸ばして、耳を、私の顔の傍《そば》へ横向けに差しつけたんです。
 ぷんと臭《にお》ったの。何とも言えない、きなッくさいような、醤油《おしたじ》の焦げるような、厭な臭《におい》よ。」
「や、そりゃ困りましたね。」と、これを聞いて少年も顰《ひそ》んだのである。
「早附木を下さい。
(はあ?)
(早附木よ、お婆さん。)
(はあ?)
 はあッて云うきりなの。目を眠って、口を開けてさ、臭うでしょう。
(早附木、)ッて私は、まったくよ。銑さん、泣きたくなったの。
 ただもう遁《に》げ出したくッてね、そこいら※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》すけれど、貴下《あなた》の姿も見えなかったんですもの。
 はあ、長い間よ。
 それでもようよう聞えたと見えてね、口をむぐむぐとさして合点《がってん》々々をしたから、また手間を取らないようにと、直ぐにね、銅貨を一つ渡してやると、しばらくして、早附木を一ダース。
 そんなには要らな
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