だもそれよ。廉平がこの丘へ半ば攀《よ》じ上った頃、消えたか、隠れたか、やがて見えなくなった。
もとより当《あて》のない尋ね人。どこへ、と見当はちっとも着かず、ただ足にまかせて、彼方《かなた》此方《こなた》、同じ処を四五|度《たび》も、およそ二三里の路はもう歩行《ある》いた。
不祥な言を放つものは、曰《いわ》く厠《かわや》から月に浮かれて、浪に誘われたのであろうも知れず、と即《すなわ》ち船を漕《こ》ぎ出《いだ》したのも有るほどで。
死んだは、活《い》きたは、本宅の主人へ電報を、と蜘蛛手《くもで》に座敷へ散り乱れるのを、騒ぐまい、騒ぐまい。毛色のかわった犬|一疋《いっぴき》、匂《におい》の高い総菜にも、見る目、※[#「鼻+嗅のつくり」、第4水準2−94−73]《か》ぐ鼻の狭い土地がら、俤《おもかげ》を夢に見て、山へ百合の花折りに飄然《ひょうぜん》として出かけられたかも料《はか》られぬを、狭島の夫人、夜半より、その行方《ゆくえ》が分らぬなどと、騒ぐまいぞ、各自《おのおの》。心して内分にお捜し申せと、独り押鎮めて制したこの人。
廉平とても、夫人が魚《うお》の寄るを見ようでなし、こんな丘へ、よもや、とは思ったけれども、さて、どこ、という目的《めあて》がないので、船で捜しに出たのに対して、そぞろに雲を攫《つか》むのであった。
目の下の浜には、細い木が五六本、ひょろひょろと風に揉《も》まれたままの形で、静まり返って見えたのは、時々潮が満ちて根を洗うので、梢《こずえ》はそれより育たぬならん。ちょうど引潮の海の色は、煙の中に藍《あい》を湛《たた》えて、或《あるい》は十畳、二十畳、五畳、三畳、真砂《まさご》の床に絶えては連なる、平らな岩の、天地《あめつち》の奇《く》しき手に、鉄槌《かなづち》のあとの見ゆるあり、削りかけの鑪《やすり》の目の立ったるあり。鑿《のみ》の歯形を印したる、鋸《のこぎり》の屑《くず》かと欠々《かけかけ》したる、その一つ一つに、白浪の打たで飜るとばかり見えて音のないのは、岩を飾った海松《みる》、ところ、あわび、蠣《かき》などいうものの、夜半《よわ》に吐いた気を収めず、まだほのぼのと揺《ゆら》ぐのが、渚《なぎさ》を籠《こ》めて蒸すのである。
漁家二三。――深々と苫屋《とまや》を伏せて、屋根より高く口を開けたり、家より大きく底を見せたり、ころりころりと大畚《おおびく》が五つ六つ。
二十一
さてこの丘の根に引寄せて、一|艘《そう》苫《とま》を掛けた船があった。海士《あま》も簑《みの》きる時雨かな、潮の※[#「さんずい+散」、240−3]《しぶき》は浴びながら、夜露や厭《いと》う、ともの優しく、よろけた松に小綱を控え、女男《めお》の波の姿に拡げて、すらすらと乾した網を敷寝に、舳《みよし》の口がすやすやと、見果てぬ夢の岩枕。
傍《かたわら》なる苫屋の背戸に、緑を染めた青菜の畠、結い繞《めぐ》らした蘆垣《あしがき》も、船も、岩も、ただなだらかな面平《おもたいら》に、空に躍った刎釣瓶《はねつるべ》も、靄《もや》を放れぬ黒い線《いとすじ》。些《さ》と凹凸なく瞰下《みおろ》さるる、かかる一枚の絵の中に、裳《もすそ》の端さえ、片袖《かたそで》さえ、美しき夫人の姿を、何処《いずこ》に隠すべくも見えなかった。
廉平は小さなその下界に対して、高く雲に乗ったように、円く靄に包まれた丘の上に、踏《ふみ》はずしそうに崖《がけ》の尖《さき》、五尺の地蔵の像で立ったけれども。
頭《こうべ》を垂れて嘆息した。
さればこの時の風采《ふうさい》は、悪魔の手に捕えられた、一体の善女《ぜんにょ》を救うべく、ここに天降《あまくだ》った菩薩《ぼさつ》に似ず、仙家の僕《しもべ》の誤って廬《ろ》を破って、下界に追い下《おろ》された哀れな趣。
廉平は腕を拱《こまぬ》いて悄然《しょうぜん》としたのである。時に海の上にひらめくものあり。
翼の色の、鴎《かもめ》や飛ぶと見えたのは、波に静かな白帆の片影。
帆風に散るか、露《もや》消えて、と見れば、海に露《あらわ》れた、一面|大《おおい》なる岩の端へ、船はかくれて帆の姿。
ぴたりとついて留まったが、飜然《ひらり》と此方《こなた》へ向《むき》をかえると、渚《なぎさ》に据《すわ》った丘の根と、海なるその岩との間、離座敷の二三間、中に泉水を湛《たた》えた状《さま》に、路一条《みちひとすじ》、東雲《しののめ》のあけて行《ゆ》く、蒼空《あおぞら》の透くごとく、薄絹の雲左右に分れて、巌《いわ》の面《おも》に靡《なび》く中を、船はただ動くともなく、白帆をのせた海が近づき、やがて横ざまに軽《かろ》くまた渚に止《とま》った。
帆の中より、水際立って、美しく水浅葱《みずあさぎ》に朝露置いた大輪《おおりん》の花一
前へ
次へ
全24ページ中17ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング