方《こなた》へ曳《ひ》いて圧《おさ》えたその袖に、と見ると怪しい針があった。
蘆の中に、色の白い痩《や》せた嫗《おうな》、高家《こうけ》の後室ともあろう、品の可《い》い、目の赤いのが、朦朧《もうろう》と踞《しゃが》んだ手から、蜘蛛《くも》の囲《い》かと見る糸|一条《ひとすじ》。
身悶《みもだ》えして引切《ひっき》ると、袖は針を外れたが、さらさらと髪が揺れ乱れた。
その黒髪の船に垂れたのが、逆《さかさ》に上へ、ひょろひょろと頬《ほお》を掠《かす》めると思うと――(今もおくれ毛が枕に乱れて)――身体《からだ》が宙に浮くのであった。
「ああ!」
船の我身は幻で、杭に黒髪の搦みながら、溺《おぼ》れていたのが自分であろうか。
また恐しい嫗の手に、怪しい針に釣り上げられて、この汗、その水、この枕、その夢の船、この身体、四角な室《へや》も穴めいて、膚《はだえ》の色も水の底、おされて呼吸《いき》の苦しげなるは、早や墳墓《おくつき》の中にこそ。呵呀《あなや》、この髪が、と思うに堪えず、我知らず、ハッと起きた。
枕を前に、飜った掻巻《かいまき》を背《せな》の力に、堅いもののごとく腕《かいな》を解いて、密《そ》とその鬢《びん》を掻上《かきあ》げた。我が髪ながらヒヤリと冷たく、褄《つま》に乱れた縮緬《ちりめん》の、浅葱《あさぎ》も色の凄《すご》きまで。
十六
疲れてそのまま、掻巻《かいまき》に頬《ほお》をつけたなり、浦子はうとうととしかけると、胸の動悸《どうき》に髪が揺れて、頭《かしら》を上へ引かれるのである。
「ああ、」
とばかり声も出ず、吃驚《びっくり》したようにまた起直った。
扱帯《しごき》は一層《ひとしお》しゃらどけして、褄《つま》もいとどしく崩れるのを、懶《ものう》げに持て扱いつつ、忙《せわ》しく肩で呼吸《いき》をしたが、
「ええ、誰も来てくれないのかねえ、私が一人でこんなに、」
と重たい髷《まげ》をうしろへ振って、そのまま仰《のけ》ざまに倒れそうな、身を揉《も》んで膝《ひざ》で支えて、ハッとまた呼吸《いき》を吐《つ》くと、トントンと岩に当って、時々|崖《がけ》を洗う浪。松風が寂《しん》として、夜が更けたのに心着くほど、まだ一声も人を呼んでは見ないのであった。
「松か、」
夫人は残燈《ありあけ》に消え残る、幻のような姿で、蚊帳の中から女中を呼んだ。
けれども、直ぐに寐入《ねい》ったものの呼覚《よびさま》される時刻でない。
第一(松、)という、その声が、出たか、それとも、ただ呼んで見ようと心に思ったばかりであるか、それさえも現《うつつ》である。
「松や、」と言って、夫人は我が声に我と我が耳を傾ける。胸のあたりで、声は聞えたようであるが、口へ出たかどうか、心許《こころもと》ない。
まあ、口も利けなくなったのか、と情《なさけ》なく、心細く、焦って、ええと、片手に左右の胸を揺《ゆす》って、
「松や、」と、急《せ》き調子でもう一度。
(松や、)と細いのが、咽喉《のど》を放れて、縁が切れて、たよりなくどこからか、あわれに寂しく此方《こなた》へ聞えて、遥《はる》か間《ま》を隔てた襖《ふすま》の隅で、人を呼んでいるかと疑われた。
「ああ、」とばかり、あらためて、その(松や、)を言おうとすると、溜息《ためいき》になってしまう。蚊帳が煽《あお》るか、衾《ふすま》が揺れるか、畳が動くか、胸が躍るか。膝を組み緊《し》めて、肩を抱いても、びくびくと身内が震えて、乱れた褄《つま》もはらはらと靡《なび》く。
引掴《ひッつか》んでまで、撫《な》でつけた、鬢《びん》の毛が、煩《うるさ》くも頬へかかって、その都度脈を打って血や通う、と次第に烈《はげ》しくなるにつれ、上へ釣られそうな、夢の針、汀《みぎわ》の嫗《おうな》。
今にも宙へ、足が枕を離れやせん。この屋根の上に蘆《あし》が生えて、台所の煙出《けむだ》しが、水面へあらわれると、芥溜《ごみため》のごみが淀《よど》んで、泡立つ中へ、この黒髪が倒《さかさ》に、髻《たぶさ》から搦《から》まっていようも知れぬ。あれ、そういえば、軒を渡る浜風が、さらさら水の流るる響《ひびき》。
恍惚《うっとり》と気が遠い天井へ、ずしりという沈んだ物音。
船がそこったか、その船には銑太郎と自分が乗って……
今、舷《ふなべり》へ髪の毛が。
「あッ、」と声立てて、浦子は思わず枕許へすッくと立ったが、あわれこれなりに嫗の針で、天井を抜けて釣上げられよう、とあるにもあられず、ばたり膝を支《つ》くと、胸を反らして、抜け出る状《さま》に、裳《もすそ》を外。
蚊帳が顔へ搦んだのが、芬《ぷん》と鼻をついた水の香《におい》。引き息で、がぶりと一口、溺《おぼ》るるかと飲んだ思い、これやがて気つけになりぬ。
目もよ
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