うよう判然《はっきり》と、蚊帳の緑は水ながら、紅《くれない》の絹のへり、かくて珊瑚《さんご》の枝ならず。浦子は辛うじて蚊帳の外に、障子の紙に描かれた、胸白き浴衣の色、腰の浅葱《あさぎ》も黒髪も、夢ならぬその我が姿を、歴然《ありあり》と見たのである。
十七
しばらくして、浦子は玉《ぎょく》ぼやの洋燈《ランプ》の心を挑《あ》げて、明《あかる》くなった燈《ともし》に、宝石輝く指の尖《さき》を、ちょっと髯《びん》に触ったが、あらためてまた掻上《かきあ》げる。その手で襟を繕って、扱帯《しごき》の下で褄《つま》を引合わせなどしたのであるが、心には、恐ろしい夢にこうまで疲労して、息づかいさえ切ないのに、飛んだ身体《からだ》の世話をさせられて、迷惑であるがごとき思いがした。
且つその身体を棄《す》てもせず、老実《まめ》やかに、しんせつにあしらうのが、何か我ながら、身だしなみよく、床《ゆか》しく、優しく、嬉しいように感じたくらい。
一つくぐって鳩尾《みずおち》から膝《ひざ》のあたりへずり下った、その扱帯の端を引上げざまに、燈《ともし》を手にして、柳の腰を上へ引いてすらりと立ったが、小用《こよう》に、と思い切った。
時に、障子を開けて、そこが何になってしまったか、浜か、山か、一里塚か、冥途《めいど》の路《みち》か。船虫が飛ぼうも、大きな油虫が駈《か》け出そうも料られない。廊下へ出るのは気がかりであったけれど、なおそれよりも恐ろしかったのは、その時まで自分が寝て居た蚊帳《かや》の内を窺《うかが》って見ることで。
蹴出《けだ》しも雪の爪尖《つまさき》へ、とかくしてずり下り、ずり下る寝衣《ねまき》の褄《つま》を圧《おさ》えながら、片手で燈をうしろへ引いて、ぼッとする、肩越のあかりに透かして、蚊帳を覗《のぞ》こうとして、爪立《つまだ》って、前髪をそっと差寄せては見たけれども、夢のために身を悶《もだ》えた、閨《ねや》の内の、情《なさけ》ない状《さま》を見るのも忌《いま》わしし、また、何となく掻巻《かいまき》が、自分の形に見えるにつけても、寝ていて、蚊帳を覗《うかが》うこの姿が透いたら、気絶しないでは済むまいと、思わずよろよろと退《すさ》って、引《ひっ》くるまる裳《もすそ》危《あやう》く、はらりと捌《さば》いて廊下へ出た。
次の室《へや》は真暗《まっくら》で、そこにはもとより誰も居ない。
閨《ねや》と並んで、庭を前に三間続きの、その一室《ひとま》を隔てた八畳に、銑太郎と、賢之助が一つ蚊帳。
そこから別に裏庭へ突き出でた角座敷の六畳に、先生が寝ている筈《はず》。
その方《ほう》にも厠《かわや》はあるが、運ぶのに、ちと遠い。
件《くだん》の次の明室《あきま》を越すと、取着《とッつき》が板戸になって、その台所を越した処に、松という仲働《なかばたらき》、お三と、もう一人女中が三人。
婦人《おんな》ばかりでたよりにはならぬが、近い上に心安い。
それにちと間はあるが、そこから一目の表門の直ぐ内に、長屋だちが一軒あって、抱え車夫が住んでいて、かく旦那《だんな》が留守の折からには、あけ方まで格子戸から灯《あかり》がさして、四五人で、ひそめくもの音。ひしひしと花ふだの響《ひびき》がするのを、保養の場所と大目に見ても、好《い》いこととは思わなかったが、時にこそよれ頼母《たのも》しい。さらばと、やがて廊下づたい、踵《かかと》の音して、するすると、裳《もすそ》の気勢《けはい》の聞ゆるのも、我ながら寂しい中に、夢から覚めたしるしぞ、と心嬉しく、明室《あきま》の前を急いで越すと、次なる小室《こべや》の三畳は、湯殿に近い化粧部屋。これは障子が明いていた。
中《うち》から風も吹くようなり、傍正面《わきしょうめん》の姿見に、勿《な》、映りそ夢の姿とて、首垂《うなだ》るるまで顔を背《そむ》けた。
新しい檜《ひのき》の雨戸、それにも顔が描かれそう。真直《まっすぐ》に向き直って、衝《つ》と燈《ともしび》を差出しながら、突《つき》あたりへ辿々《たどたど》しゅう。
十八
ばたり、閉めた杉戸の音は、かかる夜ふけに、遠くどこまで響いたろう。
壁は白いが、真暗《まっくら》な中に居て、ただそればかりを力にした、玄関の遠あかり、車夫部屋の例のひそひそ声が、このもの音にハタと留《や》んだを、気の毒らしく思うまで、今夜《こよい》はそれが嬉しかった。
浦子の姿は、無事に厠《かわや》を背後《うしろ》にして、さし置いたその洋燈《ランプ》の前、廊下のはずれに、媚《なまめ》かしく露《あら》われた。
いささか心も落着いて、カチンとせんを、カタカタとさるを抜いた、戸締り厳重な雨戸を一枚。半ば戸袋へするりと開けると、雪ならぬ夜の白砂、広庭一面、薄雲の影を宿して
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