、ああまで恐ろしかった婆《ばば》の家、巨刹《おおでら》の藪《やぶ》がそこと思う灘《なだ》を、いつ漕ぎ抜けたか忘れていたのに、何を考え出して、また今の厭《いな》な年寄。……
――それが夢か。――
「ま、待って、」
はてな、と夫人は、白き頸《うなじ》を枕《まくら》に着けて、おくれ毛の音するまで、がッくりと打《うち》かたむいたが、身の戦《わなな》くことなお留《や》まず。
それとも渚の砂に立って、巌の上に、春秋《はるあき》の美しい雲を見るような、三人の婦人の衣《きぬ》を見たのが夢か。海も空も澄み過ぎて、薄靄《うすもや》の風情も妙《たえ》に余る。
けれども、犬が泳いでいた、月の中なら兎《うさぎ》であろうに。
それにしても、また石屋の親方が、水に彳《たたず》んだ姿が怪しい。
そういえば用が用、仏像を頼みに行《ゆ》くのだから、と巡礼染《じゅんれいじ》みたも心嬉しく、浴衣がけで、草履で、二つ目へ出かけたものが、人の背《せなか》で浪を渡って、船に乗ろうとは思いもかけぬ。
いやいや思いもかけぬといえば、荒物屋の、あの老婆《としより》。通りがかりに、ちょいとほんの燐枝《マッチ》を買いに入ったばかりで、あんな、恐ろしい、忌《いま》わしい不気味なものを、しかも昼間見ようとは、それこそ夢にも知らなかった。
船はそのためとして見れば、巌の婦人も夢ではない。石屋の親方が自分を背負《おぶ》って、世話をしてくれたのも、銑さんが船を漕いだのも、浪も、鴎も夢ではなくって、やっぱり今のが夢であろう。
――「ああ、恐しい夢を見た。」――
と肩がすくんで、裳《もすそ》わなわな、瞳《ひとみ》を据えて恐々《こわごわ》仰ぐ、天井の高い事。前後左右は、どのくらいあるか分らず、凄《すご》くて※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》すことさえならぬ、蚊帳《かや》に寂しき寝乱れ姿。
十五
果して夢ならば、海も同じ潮入りの蘆間《あしま》の水。水のどこからが夢であって、どこまでが事実であったか。船はもう一浪《ひとなみ》で、一つ目の浜へ着くようになった時、ここから上って、草臥《くたび》れた足でまた砂を蹈《ふ》もうより、小川尻《おがわじり》へ漕《こ》ぎ上《あが》って、薦の葉を一またぎ、邸《やしき》の背戸の柿の樹へ、と銑さんの言った事は――確《たしか》に今も覚えている。
艪《ろ》よりは潮が押し入れた、川尻のちと広い処を、ふらふらと漕ぎのぼると、浪のさきが飜って、潮の加減も点燈《ひともし》ごろ。
帆柱が二本並んで、船が二|艘《そう》かかっていた。舷《ふなばた》を横に通って、急に寒くなった橋の下、橋杭《はしぐい》に水がひたひたする、隧道《トンネル》らしいも一思い。
石垣のある土手を右に、左にいつも見る目より、裾《すそ》も近ければ頂もずっと高い、かぶさる程なる山を見つつ、胴ぶくれに広くなった、湖のような中へ、他所《よそ》の別荘の刎橋《はねばし》が、流《ながれ》の半《なかば》、岸近な洲《す》へ掛けたのが、満潮《みちしお》で板も除《の》けてあった、箱庭の電信ばしらかと思うよう、杭がすくすくと針金ばかり。三角形《さんかくなり》の砂地が向うに、蘆の葉が一靡《ひとなび》き、鶴の片翼《かたつばさ》見るがごとく、小松も斑《ふ》に似て十本《ともと》ほど。
暮れ果てず灯《ともし》は見えぬが、その枝の中を透く青田越《あおたご》しに、屋根の高いはもう我が家。ここの小松の間を選んで、今日あつらえた地蔵菩薩《じぞうぼさつ》を――
仏様でも大事ない、氏神にして祭礼《おまつり》を、と銑さんに話しながら見て過ぎると、それなりに川が曲って、ずッと水が狭うなる、左右は蘆が渺《びょう》として。
船がその時ぐるりと廻った。
岸へ岸へと支《つか》うるよう。しまった、潮が留《とま》ったと、銑さんが驚いて言った。船べりは泡だらけ。瓜《うり》の種、茄子《なす》の皮、藁《わら》の中へ木の葉が交《まじ》って、船も出なければ芥《あくた》も流れず。真水がここまで落ちて来て、潮に逆《さから》って揉《も》むせいで。
あせって銑さんのおした船が、がッきと当って杭《くい》に支《つか》えた。泡沫《しぶき》が飛んで、傾いた舷《ふなばた》へ、ぞろりとかかって、さらさらと乱れたのは、一束《ひとたばね》の女の黒髪、二巻ばかり杭に巻いたが、下には何が居るか、泥で分らぬ。
ああ、芥の臭《におい》でもすることか、海松布《みる》の香でもすることか、船へ搦《から》んで散ったのは、自分と同一《おなじ》鬢水《びんみず》の……
――浦子は寝ながら呼吸《いき》を引いた。――
――今も蚊帳に染む梅花の薫《かおり》。――
あ、と一声|退《の》こうとする、袖《そで》が風に取られたよう、向うへ引かれて、靡《なび》いたので、此
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