合を折って来ました。帰って御覧なさい、そりゃ綺麗《きれい》です。母の部屋へも、先生の床の間へも、ちゃんと活《い》けるように言って来ました。」
「はあ、それは難有《ありがた》い。朝なんざ崖《がけ》に湧《わ》く雲の中にちらちら燃えるようなのが見えて、もみじに朝霧がかかったという工合でいて、何となく高峰《たかね》の花という感じがしたのに、賢君の丹精で、机の上に活かったのは感謝する。
 早く行って拝見しよう、……が、また誰か、台所の方で、私の帰るのを待っているものはなかったですか。」
 と小鼻の左右の線を深く、微笑を含んで少年を。
 顔を見合わせて此方《こなた》も笑い、
「はははは、松が大層待っていました。先生のお肴《さかな》を頂こうと思って、お午飯《ひる》も控えたって言っていましたっけ。」
「それだ。なかなか人が悪い。」広い額に手を加える。
「それに、母も、先生。お土産を楽しみにして、お腹をすかして帰るからって、言づけをしたそうです。」
「益々《ますます》恐縮。はあ、で、奥さんはどこかへお出かけで。」
「銑さんが一所だそうです。」
「そうすると、その連《つれ》の人も、同じく土産を待つ方なんだ。」
「勿論です。今日ばかりは途中で叔母さんに何にも強請《ねだ》らない。犬川で帰って来て、先生の御馳走《ごちそう》になるんですって。」
 とまた顔を見る。
 この時、先生|愕然《がくぜん》として頸《うなじ》をすくめた。
「あかぬ! 包囲攻撃じゃ、恐るべきだね。就中《なかんずく》、銑太郎などは、自分釣棹をねだって、貴郎《あなた》が何です、と一言の下《もと》に叔母御《おばご》に拒絶された怨《うらみ》があるから、その祟《たた》り容易ならずと可知矣《しるべし》。」
 と蘆の葉ずれに棹を垂れて、思わず観念の眼《まなこ》を塞《ふさ》げば、少年は気の毒そうに、
「先生、買っていらっしゃい。」
「買う?」
「だって一|尾《ぴき》も居ないんですもの。」
 と今更ながら畚《びく》を覗《のぞ》くと、冷《つめた》い磯《いそ》の香《におい》がして、ざらざらと隅に固まるものあり、方丈記に曰《いわ》く、ごうなは小さき貝を好む。

       八

 先生は見ざる真似《まね》して、少年が手に傾けた件《くだん》の畚《びく》を横目に、
「生憎《あいにく》、沙魚《はぜ》、海津《かいづ》、小鮒《こぶな》などを商う魚屋がなくって困る。奥さんは何も知らず、銑太郎なお欺くべしじゃが、あの、お松というのが、また悪く下情《かじょう》に通じておって、ごうなや川蝦《かわえび》で、鰺《あじ》やおぼこの釣れないことは心得ておるから。これで魚屋へ寄るのは、落語の権助が川狩の土産に、過って蒲鉾《かまぼこ》と目刺を買ったより一層の愚じゃ。
 特に餌《えさ》の中でも、御馳走の川蝦は、あの松がしんせつに、そこらで掬《すく》って来てくれたんで、それをちぎって釣る時分は、浮木《うき》が水面に届くか届かぬに、ちょろり、かいず奴《め》が攫《さら》ってしまう。
 大切な蝦五つ、瞬く間にしてやられて、ごうなになると、糸も動かさないなどは、誠に恥入るです。
 私は賢君が知っとる通り、ただ釣という事におもしろい感じを持って行《や》るのじゃで、釣れようが釣れまいが、トンとそんな事に頓着《とんちゃく》はない。
 次第に因ったら、針もつけず、餌なしに試みて可《い》いのじゃけれど、それでは余り賢人めかすようで、気咎《きとがめ》がするから、成るべく餌も附着《くッつ》けて釣る。獲物の有無《ありなし》でおもしろ味に変《かわり》はないで、またこの空畚《からびく》をぶらさげて、蘆《あし》の中を釣棹《つりざお》を担いだ処も、工合の可《い》い感じがするのじゃがね。
 その様子では、諸君に対して、とてもこのまま、棹を掉《ふ》っては[#「掉《ふ》っては」は底本では「掉《ふ》つては」]帰られん。
 釣を試みたいと云うと、奥様が過分な道具を調えて下すった。この七本竹の継棹《つぎざお》なんぞ、私には勿体《もったい》ないと思うたが、こういう時は役に立つ。
 一つ畳み込んで懐中《ふところ》へ入れるとしよう、賢君、ちょっとそこへ休もうではないか。」
 と月を見て立停《たちどま》った、山の裾《すそ》に小川を控えて、蘆が吐き出した茶店が一軒。薄い煙に包まれて、茶は沸いていそうだけれど、葦簀張《よしずばり》がぼんやりして、かかる天気に、何事ぞ、雨露に朽ちたりな。
「可《い》いじゃありませんか、先生、畚は僕が持っていますから、松なんぞ愚図々々《ぐずぐず》言ったら、ぶッつけてやります。」
 無二の味方で頼母《たのも》しく慰めた。
「いやまた、こう辟易《へきえき》して、棹を畳んで、懐中《ふところ》へ了《しま》い込んで、煙管筒《きせるづつ》を忘れた、という顔で帰る処もおもしろい
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