嬉しそうに、少年の肩にかけて、見直して呼吸《いき》をついて、
「銑さん、お止《よ》しなさいお止しなさい、気味が悪いから、ね、お止しなさい。」
とさも一生懸命。圧《おさ》えぬばかりに引留めて、
「あんなものは、今頃何に化《な》っているか分りませんよ、よう、ですから、銑さん。」
「じゃ止します、止しますがね。」
少年は余りの事に、
「ははははは、何だか妖物《ばけもの》ででもあるようだ。」と半ば呟《つぶや》いて、また笑った。
「私は妖物としか考えないの、まさか居ようとは思われないけれど。」
「妖物ですとも、妖物ですがね、そのくなくなした処や、天窓《あたま》で歩行《ある》きそうにする処から、黄色く※[#「亠/(田+久)」、200−7]《うね》った処なんぞ、何の事はない婆《ばば》の毛虫だ。毛虫の婆《ばあ》さんです。」
「厭《いや》ですことねえ。」と身ぶるいする。
「何もそんなに、気味を悪がるには当らないじゃありませんか。その婆に手を握られたのと、もしか樹の上から、」
と上を見る。藪《やぶ》は尽きて高い石垣、榎《えのき》が空にかぶさって、浴衣に薄き日の光、二人は月夜を行《ゆ》く姿。
「ぽたりと落ちて、毛虫が頸筋《くびすじ》へ入ったとすると、叔母さん、どっちが厭な心持だと思います。」
「沢山よ、銑さん、私はもう、」
「いえ、まあ、どっちが気味が悪いんですね。」
「そりゃ、だって、そうねえ、どっちがどっちとも言えませんね。」
「そら御覧なさい。」
説き得て可《よ》しと思える状《さま》して、
「叔母さんは、その婆を、妖物か何ぞのように大騒ぎを遣《や》るけれど、気味の悪い、厭な感じ。」
感じ、と声に力を入れて、
「感じというと、何だか先生の仮声《こわいろ》のようですね。」
「気楽なことをおっしゃいよ!」
「だって、そうじゃありませんか、その気味の悪い、厭な感じ、」
「でも先生は、工合《ぐあい》の可《い》いとか、妙なとか、おもしろい感じッて事は、お言いなさるけれど、気味の悪いだの、厭な感じだのッて、そんな事は、めったにお言いなさることはありません。」
「しかしですね、詰《つま》らない婆を見て、震えるほど恐《こわ》がった、叔母さんの風《ふう》ッたら……工合の可《い》い、妙な、おもしろい感じがする、と言ったら、叔母さんは怒るでしょう。」
「当然《あたりまえ》ですわ、貴郎《あなた》。」
「だからこの場合ですもの。やっぱり厭な感じだ。その気味の悪い感じというのが、毛虫とおなじぐらいだと思ったらどうです。別に不思議なことは無いじゃありませんか。毛虫は気味が悪い、けれども怪《あやし》いものでも何でもない。」
「そう言えばそうですけれど、だって婆さんの、その目が、ねえ。」
「毛虫にだって、睨《にら》まれて御覧なさい。」
「もじゃもじゃと白髪《しらが》が、貴郎。」
「毛虫というくらいです、もじゃもじゃどころなもんですか、沢山毛がある。」
「まあ、貴下《あなた》の言うことは、蝸牛《でんでんむし》の狂言のようだよ。」と寂しく笑ったが、
「あれ、」
寺でカンカンと鉦《かね》を鳴らした。
「ああ、この路の長かったこと。」
七
釣棹《つりざお》を、ト肩にかけた、処士あり。年紀《とし》のころ三十四五。五分刈《ごぶがり》のなだらかなるが、小鬢《こびん》さきへ少し兀《は》げた、額の広い、目のやさしい、眉の太い、引緊《ひきしま》った口の、やや大きいのも凜々《りり》しいが、頬肉《ほおじし》が厚く、小鼻に笑《え》ましげな皺《しわ》深く、下頤《したあご》から耳の根へ、べたりと髯《ひげ》のあとの黒いのも柔和である。白地に藍《あい》の縦縞《たてじま》の、縮《ちぢみ》の襯衣《しゃつ》を着て、襟のこはぜも見えそうに、衣紋《えもん》を寛《ゆる》く紺絣《こんがすり》、二三度水へ入ったろう、色は薄く地《じ》も透いたが、糊沢山《のりだくさん》の折目高。
薩摩下駄《さつまげた》の小倉《こくら》の緒《お》、太いしっかりしたおやゆびで、蝮《まむし》を拵《こしら》えねばならぬほど、弛《ゆる》いばかりか、歪《ゆが》んだのは、水に対して石の上に、これを台にしていたのであった。
時に、釣れましたか、獲物を入れて、片手に提《ひっさ》ぐべき畚《びく》は、十八九の少年の、洋服を着たのが、代りに持って、連立って、海からそよそよと吹く風に、山へ、さらさらと、蘆《あし》の葉の青く揃って、二尺ばかり靡《なび》く方へ、岸づたいに夕日を背《せな》。峰を離れて、一刷《ひとはけ》の薄雲を出《いで》て玉のごとき、月に向って帰途《かえりみち》、ぶらりぶらりということは、この人よりぞはじまりける。
「賢君、君の山越えの企ては、大層帰りが早かったですな。」
少年は莞爾《にこ》やかに、
「それでも一抱えほど山百
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