……畦の端の草もみじに、だらしなく膝をついた。半襟の藍に嫁菜が咲いて、
「おほほほほほほ、あはははは、おほほほほほ。」
 そこを両脇、乳も、胸も、もぞもぞと尾花が擽《くすぐ》る! はだかる襟の白さを合すと、合す隙に、しどけない膝小僧の雪を敷く。島田髷《しまだ》も、切れ、はらはらとなって、
「堪忍してよう、おほほほほ、あははははは。」
 と、手をふるはずみに、鳴子縄《なるこなわ》に、くいつくばかり、ひしと縋《すが》ると、刈田の鳴子が、山に響いてからからから、からからからから。
「あはははははは。おほほほほほ。」
 勃然《むっ》とした体《てい》で、島田の上で、握拳の両手を、一度|打擲《ちょうちゃく》をするごとくふって見せて、むっとして男が行くので、はあはあ膝を摺《ず》らし、腰を引いて、背には波を打たしながら、身を蜿《うね》らせて、やっと立って、女は褄を引合せざまに振向くと、ちょっと小腰を屈めながら、教授に会釈をするが疾《はや》いか。
「きゃあ――」と笑って、衝《つ》と駈《か》けざまに、男のあとを掛稲の背後《うしろ》へ隠れた。
 その掛稲は、一杯の陽の光と、溢《あふ》れるばかり雀を吸って、むくむくとして、音のするほど膨れ上って、なお堪《こら》えず、おほほほほ、笑声を吸込んで、遣切《やりき》れなくなって、はち切れた。稲穂がゆさゆさと一斉に揺れたと思うと、女の顔がぼっと出て、髪を黒く、唇を紅《あか》く、
「おほほほほほほほ、あはははははは。」
「白痴奴《だらめ》、汝《おどれ》!」
 ねつい、怒《いか》った声が響くと同時に、ハッとして、旧《もと》の路へ遁《に》げ出した女の背に、つかみかかる男の手が、伸びつつ届くを、躱《かわ》そうとしたのが、真横にばったり。
 伸《の》しかかると、二ツ三ツ、ものをも言わずに、頬とも言わず、肩とも言わず、男の拳が、尾花の穂がへし折れるように見えて打擲した。
 顔も、髪も、土《どろ》まみれに、真白《まっしろ》な手を袖口から、ひしと合せて、おがんで縋って、起きようとする、腕を払って、男が足を上げて一つ蹴た。
 瞬くばかりの間である。
「何をする、何をする。」
 たかが山家《やまが》の恋である。男女の痴話の傍杖《そばづえ》より、今は、高き天《そら》、広き世を持つ、学士榊三吉も、むかし、一高で骨を鍛えた向陵の健児の意気は衰えず、
「何をする、何をするんだ。」
 草の径《みち》ももどかしい。畦《あぜ》ともいわず、刈田と言わず、真直《まっすぐ》に突切《つっき》って、颯《さっ》と寄った。
 この勢いに、男は桂谷の山手の方へ、掛稲を縫って、烏とともに飛んで遁《に》げた。
「おお。」
「あ、あれ、先刻《さっき》の旦那さん。」
 遁げた男は治兵衛坊主で――お光に聞いた――小春であった。
「外套を被《かぶ》って、帽子をめして、……見違えて、おほほほほ、失礼な、どうしましょう。」
 と小春は襟も帯も乱れた胸を、かよわく手でおさえて、片手で外套の袖に縋りながら、蒼白《まっさお》な顔をして、涙の目でなお笑った。
「おほほほほほ、堪忍、御免なすって、あははははは。」
 妙齢《としごろ》だ。この箸がころんでも笑うものを、と憮然《ぶぜん》としつつ、駒下駄が飛んで、はだしの清い、肩も膝も紅《くれない》の乱れた婦《おんな》の、半ば起きた肩を抱いた。
「御免なすって、旦那さん、赤蜻蛉をつかまえようと遊ばした、貴方《あなた》の、貴方の形が、余り……余り……おほほほほ。」
「いや、我ながら、思えば可笑《おか》しい。笑うのは当り前だ。が、気の毒だ。連《つれ》の男は何という乱暴だ。」
「ええ、家《うち》ではかえって人目に立つッて、あの、おほほ、心中《しんじゅう》の相談をしに来た処だものですから、あはははは。」
 ひたと胸に、顔をうずめて、泣きながら、
「おほほほほほほ。」

       五

「旦那さん、そんなら、あの、私、……死なずと大事ございませんか……」
「――言うだけの事はないよ、――まるッきり、お前さんが慾《よく》ばかりでだましたのでみた処で……こっちは芸妓《げいしゃ》だ。罪も報《むくい》もあるものか。それに聞けば、今までに出来るだけは、人情も義理も、苦労をし抜いて尽しているんだ。……勝手な極道《ごくどう》とか、遊蕩《ゆうとう》とかで行留りになった男の、名は体《てい》のいい心中だが、死んで行《ゆ》く道連れにされて堪《たま》るものではない。――その上、一人身ではないそうだ。――ここへ来る途中で俄盲目《にわかめくら》の爺《とっ》さんに逢って、おなじような目の悪い父親があると言って泣いたじゃないか。」――

 掛稲《かけいね》、嫁菜の、畦《あぜ》に倒れて、この五尺の松に縋《すが》って立った、山代の小春を、近江屋へ連戻った事は、すぐに頷《うなず》かれよう。芸妓《げいしゃ》である。そのまま伴って来るのに、何の仔細《しさい》もなかったこともまた断るに及ぶまい。
 なお聞けば、心中は、単に相談ばかりではない。こうした場所と、身の上では、夜中よりも人目に立たない、静《しずか》な日南《ひなた》の隙を計って、岐路《えだみち》をあれからすぐ、桂谷へ行くと、浄行寺《じょうぎょうじ》と云う門徒宗が男の寺。……そこで宵の間《ま》に死ぬつもりで、対手《あいて》の袂《たもと》には、商《あきない》ものの、(何とか入らず)と、懐中には小刀《ナイフ》さえ用意していたと言うのである。
 上前《うわまえ》の摺下《ずりさが》る……腰帯の弛《ゆる》んだのを、気にしいしい、片手でほつれ毛を掻きながら、少しあとへ退《さが》ってついて来る小春の姿は、道行《みちゆき》から遁《に》げたとよりは、山奥の人身御供《ひとみごくう》から助出《たすけだ》されたもののようであった。
 左山中|道《みち》、右桂谷道、と道程標《みちしるべ》の立った追分《おいわけ》へ来ると、――その山中道の方から、脊のひょろひょろとした、頤《あご》の尖《とが》った、痩《や》せこけた爺《じい》さんの、菅《すげ》の一もんじ笠を真直《まっすぐ》に首に据えて、腰に風呂敷包をぐらつかせたのが、すあしに破脚絆《やぶれぎゃはん》、草鞋穿《わらじばき》で、とぼとぼと竹の杖《つえ》に曳《ひ》かれて来たのがあった。
 この竹の杖を宙に取って、さきを握って、前へも立たず横添《よこぞい》に導きつつ、くたびれ脚を引摺ったのは、目も耳もかくれるような大《おおき》な鳥打帽の古いのをかぶった、八つぐらいの男の児《こ》で。これも風呂敷包を中結《なかゆわ》えして西行背負《さいぎょうじょい》に背負っていたが、道中《みちなか》へ、弱々と出て来たので、横に引張合《ひっぱりあ》った杖が、一方通せん坊になって、道程標《みちしるべ》の辻の処で、教授は足を留めて前へ通した。が、細流《せせらぎ》は、これから流れ、鳥居は、これから見え、町もこれから賑《にぎや》かだけれど、俄めくらと見えて、突立《つった》った足を、こぶらに力を入れて、あげたり、すぼめたりするように、片手を差出して、手探りで、巾着《きんちゃく》ほどな小児《こども》に杖を曳かれて辿《たど》る状《さま》。いま生命《いのち》びろいをした女でないと、あの手を曳いて、と小春に言ってみたいほど、山家の冬は、この影よりして、町も、軒も、水も、鳥居も暗く黄昏《たそが》れた。
 駒下駄のちょこちょこあるきに、石段下、その呉羽の神の鳥居の蔭から、桃割《ももわれ》ぬれた結立《ゆいたて》で、緋鹿子《ひがのこ》の角絞《つのしぼ》り。簪《かんざし》をまだささず、黒繻子《くろじゅす》の襟の白粉垢《おしろいあか》の冷たそうな、かすりの不断着をあわれに着て、……前垂《まえだれ》と帯の間へ、古風に手拭《てぬぐい》を細《こまか》く挟んだ雛妓《おしゃく》が、殊勝にも、お参詣《まいり》の戻《もどり》らしい……急足《いそぎあし》に、つつッと出た。が、盲目《めくら》の爺《とっ》さんとすれ違って前へ出たと思うと、空から抱留められたように、ひたりと立留って振向いた。
「や、姉ちゃん。」――と小児《こども》が飛着く。
 見る見るうちに、雛妓の、水晶のような※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った目は、一杯の涙である。
 小春は密《そっ》と寄添うた。
「姉ちゃん、お父ちゃんが、お父ちゃんが、目が見えなくなるから、……ちょっと姉ちゃんを見てえってなあ。……」
 西行背負の風呂敷づつみを、肩の方から、いじけたように見せながら、
「姉ちゃん、大すきな豆の餅《あんも》を持って来た。」
 ものも言い得ず、姉さんは、弟のその頭《つむり》を撫《な》でると、仰いで笠の裡《うち》を熟《じっ》と視《み》た。その笠を被《かぶ》って立てる状《さま》は、かかる苦界にある娘に、あわれな、みじめな、見すぼらしい俄盲目には見えないで、しなびた地蔵菩薩《じぞうぼさつ》のようであった。
 親仁《おやじ》は抱しめもしたそうに、手探りに出した手を、火傷《やけど》したかと慌てて引いて、その手を片手おがみに、あたりを拝んで、誰ともなしに叩頭《おじぎ》をして、
「御免下され、御免下され。」
 と言った。

「正念寺様におまいりをして、それから木賃へ行《ゆ》くそうです。いま参りましたのは、あの妓《こ》がちょっと……やかたへ連れて行きましたの。」
 突当《つきあたり》らしいが、横町を、その三人が曲りしなに、小春が行きすがりに、雛妓《おしゃく》と囁《ささや》いて「のちにえ。」と言って別れに、さて教授にそう言った。
 ――来た途中の俄盲目は、これである――
 やがて、近江屋の座敷では、小春を客分に扱って、膳を並べて、教授が懇《ねんごろ》に説いたのであった。

「……ほんとに私、死なないでも大事ございませんわね。」
「死んで堪《たま》るものか、死ぬ方が間違ってるんだ。」
「でも、旦那さん、……義理も、人情も知らない女だ、薄情だと、言われようかと、そればかりが苦になりました。もう人が何と言いましょうと、旦那さんのお言《ことば》ばかりで、どんなに、あの人から責められましても私はきっぱりと、心中なんか厭《いや》だと言います。お庇《かげ》さまで助りました。またこれで親兄弟のいとしい顔も見られます。もう、この一年ばかりこのかたと言いますもの、朝に晩に泣いてばかり、生きた瀬はなかったのです。――その苦《くるし》みも抜けました。貴方は神様です。仏様です。」
「いや、これが神様や仏様だと、赤蜻蛉の形をしているのだ。」
「おほほ。」
「ああ、ほんとに笑ったな――もう可《よ》し、決して死ぬんじゃないよ。」
「たとい間違っておりましても、貴方のお言《ことば》ばかりで活《い》きます。女の道に欠けたと言われ、薄情だ、売女《ばいた》だと言う人がありましても、……口に出しては言いませんけれど、心では、貴方のお言葉ゆえと、安心をいたします。」
「あえて構わない。この俺が、私と言うものが、死ぬなと言ったから死なないと、構わず言え。――言ったって決して構わん。」
「いいえ、勿体ない、お名ふだもおねだり申して頂きました。人には言いはしませんが、まあ、嬉しい。……嬉しゅうございますわ。――旦那さん。」
「…………」
「あの、それですけれど……安心をしましたせいですか、落胆《がっかり》して、力が抜けて。何ですか、余り身体《からだ》にたわいがなくって、心細くなりました。おそばへ寄せて下さいまし……こんな時でございませんと、思い切って、お顔が見られないのでございますけど、それでも、やっぱり、暗くて見えはしませんわ。」
 と、膝に密《そっ》と手を置いて、振仰いだらしい顔がほの白い。艶《つや》濃《こ》き髪の薫《かおり》より、眉がほんのりと香《にお》いそうに、近々とありながら、上段の間は、いまほとんど真暗《まっくら》である。

       六

 実は、さきに小春を連れて、この旅館へ帰った頃に、廊下を歩行《ある》き馴《な》れたこの女が、手を取ったほど早や暗くて、座敷も辛《かろう》じて黒白《あいろ》の分るくらいであった。金屏風《きんびょうぶ》とむきあ
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